世界の歴史

イエメンの歴史をやさしく解説!サバア王国から現代まで流れがわかる

はじめに

イエメンはアラビア半島の南端に位置している国で、紅海やアデン湾に面しています。

現在は紛争や貧困、政治的不安定など、厳しい状況に置かれている国として報道されることが多いですよね。

しかし、イエメンは実はとても長い歴史を持ち、壮大な文化遺産が残されている土地でもあるんです!

今回は、そんなイエメンの歴史について、初めて学ぶ方向けにわかりやすく解説します。

古代から近現代に至るまでの主要な出来事や時代の特徴を順に見ていきましょう。

イエメンの地理的特徴と歴史のつながり

歴史をひもとくにあたっては、その国の地理や気候、交易ルートの位置付けなどを把握しておくことが大切です。

イエメンはアラビア半島の南端にあるため、昔から海上・陸上交易の要所として知られてきました

海を渡ればアフリカ大陸と繋がり、陸路ではアラビア半島からペルシャ湾地域、ひいては地中海世界へと続いています。

また、イエメンは「幸福のアラビア(アラビア・フェリックス)」と呼ばれていた時代もあります。

なぜ「幸福のアラビア」と呼ばれていたかというと、この地域は降水量が比較的多く、農業や貿易で豊かだったからです!

乾燥地帯が多い中東の国々のなかで、肥沃な土地を持つイエメンは昔から魅力的な地域だったのですね。

古代イエメン:サバア王国からヒムヤル王国へ

サバア王国(紀元前8世紀頃~紀元前1世紀頃)

イエメンの歴史を語るうえで、まず注目したいのがサバア王国です。

サバア王国は、旧約聖書にも登場する「シバの女王」で有名!

紀元前8世紀頃から勢力を築き、香料貿易で栄えた王国として知られています。

特に乳香や没薬といった香料は、当時の中東や地中海世界でとても貴重だったので、この交易はサバア王国に莫大な利益をもたらしました。

サバア王国は高度な灌漑施設を整え、農業生産力を高めていたことでも有名です。

代表的なのは「マリブ・ダム」と呼ばれる大規模なダムで、周辺地域の農業を支え、その富が王国の発展を後押ししました!

しかし、ダムの維持は簡単なことではなく、時代を経るにつれて徐々に衰退に向かっていきます。

ヒムヤル王国(紀元前2世紀頃~紀元後6世紀頃)

サバア王国の衰退後、イエメン地域を主導していったのがヒムヤル王国です。

ヒムヤル王国は、紀元前2世紀頃から勢力を伸ばし、紀元後3世紀頃にサバア王国を併合する形でアラビア南部の大部分を支配するようになりました。

首都はジファール(ツァファールとも)に置かれ、そこを中心に強固な国家体制を築き上げたのです。

ヒムヤル王国は宗教や文化の多様性が特徴的でした!

ユダヤ教を国家的に信仰した時期もあれば、キリスト教の影響を受けた時期もあったようです。

交易の面でも、やはり香料ルートは非常に重要な意味を持ち、地中海世界やインドなどとの交流が深まりました。

しかし6世紀に入り、エチオピア(アクスム王国)の侵攻やササン朝ペルシアの影響などを受け、最終的にはイスラム勢力の台頭に巻き込まれる形で、その独立性を失っていきます。

イスラム帝国支配下のイエメン

7世紀に誕生したイスラム教は、瞬く間にアラビア半島全域に広まっていきました。

預言者ムハンマドの死後、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝とイスラム帝国が拡大していくにつれ、イエメンもその版図に組み込まれていきます。

イエメンがイスラム世界の一部となったことにより、宗教や文化の面だけでなく、政治の動向にも大きな変化が生じるようになりました!

当時のイエメンは、イスラム教を受容しつつも、地理的にやや遠隔地だったことから、地方政権や部族的勢力が強い傾向にありました

そのため、帝国中央から派遣される総督や地方指導者の権力が強固というわけではなく、複雑な支配構造が長く続きました。

ザイド派イマーム政権とオスマン帝国の影響

ザイド派の台頭

イエメン史を学ぶうえで外せないのが、シーア派の一派であるザイド派(ザイド・イスラム)の存在です。

9世紀頃からザイド派のイマーム(宗教的指導者)がイエメン北部を中心に勢力を築き、事実上の独立国家を形成していきました。

ザイド派イマーム政権はイエメンの歴史を彩る重要な要素であり、20世紀まで続く長い伝統を持つことになります!

オスマン帝国の侵入

16世紀に入ると、オスマン帝国がイエメンに侵入し、紅海沿岸地域を支配下に置きます。

紅海はインド洋や地中海に繋がる重要な交易ルートでしたので、オスマン帝国もここを押さえることで交易による利益を確保しようとしました。

しかしイエメン全土を完全に支配するのは容易ではありません。

山が多い地形や地元勢力の抵抗によって、イエメン北部ではザイド派イマームによる自治が続き、南部では各地方首長などが独自の支配を続けました。

このように、オスマン帝国は形式上イエメンを領有したものの、実質的にはあまり統一的な支配体制を築くことができなかったのです。

近代イエメンの歩み

オスマン帝国からの独立

19世紀に入り、オスマン帝国が徐々に衰退していくと、イエメンのザイド派イマーム政権は北部で大きな影響力を持ち始めます。

一方、南部のアデン港は1839年にイギリスによって占領され、のちにイギリス領アデン植民地として確立しました。

こうして北部と南部は異なる勢力の支配下に置かれ、長い分断の時代へと突入していきます。

イマーム制の国王政

北部では、オスマン帝国から正式に独立した形でザイド派イマームが君臨する体制へ移行します。

1918年にはイエメン王国(ムタワッキリヤ・イエメン王国)が樹立され、その後はイマームを王として戴く絶対王政が続きました。

この政体はイスラム教や部族社会との密接な結びつきが強く、改革がなかなか進まない性格があったと言われています。

20世紀のイエメン:分断と統一への道

北イエメンと南イエメンの成立

第二次世界大戦後も、北はイエメン王国(イマーム制)の支配が続き、南はイギリスの影響下に置かれたアデン植民地と、その周辺の保護領が乱立する状況でした。

しかし1950~60年代に入ると、中東各地で民族主義や脱植民地化の運動が高まり、イエメンでも政治的に大きな動きが起こります。

まず1962年、北部イエメン(イエメン王国)でクーデターが起き、共和制を樹立する動きが開始されました。

これをきっかけに「北イエメン」として知られる「イエメン・アラブ共和国」が成立します。

一方の南部でも独立運動が強まり、1967年にイギリスの植民地支配から脱却。

南イエメン」と呼ばれる「南イエメン人民共和国(のちのイエメン人民民主共和国)」が誕生しました。

こうして北と南がそれぞれ独立した国として存在するようになり、アラビア半島唯一の社会主義国家としての道を歩んだ南イエメンと、共和制を標榜する北イエメンに分かれることになったのです。

冷戦の影響と南北紛争

北イエメンはアラブ諸国や西側諸国寄りの路線を取り、南イエメンはソ連など東側諸国から支援を受ける社会主義路線を取りました。

この構図はまさに冷戦下の国際政治をイエメンにもたらしたのです。両国は度々軍事衝突を起こし、統一への道は簡単ではありませんでした

しかし、冷戦末期になると世界情勢が大きく変化し、南北イエメンの対立にも変化が訪れます。

イエメン共和国の誕生とその後

1990年の統一

1980年代後半のソ連崩壊などの国際情勢の変化により、南イエメンの社会主義政権は財政難に直面し、北イエメンとの統合を模索せざるを得ない状況に追い込まれました。

一方、北イエメン側もアラブ統一の思想や経済的メリットを期待し、交渉を進めます。

そして1990年、ついに北と南は統合し、「イエメン共和国」が誕生したのです!

これはアラビア半島においても画期的な出来事でした。

統一後の課題と内戦

統一後、イエメン共和国は一国として新たなスタートを切りますが、政治的な混乱は続きました。

旧北と旧南の利権構造、軍事組織の統合など、解決すべき問題が山積みだったのです。

1994年には南部分離派による反乱が起こり、短期間ですが内戦状態に突入しました。

結局、北側主導の軍事行動によって鎮圧され、イエメン統一体制は維持されることとなります。

現代イエメンの情勢

サーレハ政権とアラブの春

1990年の統一後、旧北イエメンの大統領だったアリ・アブドゥッラー・サーレハが引き続き大統領に就任し、数十年にわたる長期政権を築きました。

しかし2011年頃にアラブ世界を揺るがした「アラブの春」の波はイエメンにも及びます。

大規模デモや政権への不満が噴出し、サーレハ大統領は退陣に追い込まれました。

フーシ派の台頭と内戦の深刻化

サーレハ退陣後、政権を担ったハーディ大統領は統治基盤が脆弱で、ザイド派のフーシ派(ホーシーとも表記)の蜂起を抑えきれませんでした。

フーシ派は北部サアダ県を拠点とし、2014年には首都サナアを制圧。

一時的にサーレハ前大統領とも協力関係を築きましたが、最終的には対立し、サーレハは2017年に殺害されます。

こうしてイエメンは深刻な内戦状態に陥り、現在も混乱が続いています。

さらに、サウジアラビアを中心とした連合軍が介入し、フーシ派を空爆する事態に発展。

この内戦により多くの市民が犠牲となり、人道危機が深刻化している点は、国際社会が早急に解決を目指すべき大きな課題といえるでしょう。

イエメンの歴史が持つ意義

イエメンの歴史は、古代から続く豊かな文化や、イスラム世界の中での地方政権の興亡、オスマン帝国やイギリスの影響、そして冷戦時代の社会主義と西側諸国の対立など、世界史の縮図とも言えるほど多様な要素で満ちています。

現在のイエメン情勢は非常に厳しい状況にありますが、その背景には長い歴史の蓄積や地政学的な複雑さがあることを理解することが大切です。

また、古代のサバア王国やヒムヤル王国が築いた貴重な遺跡や文化遺産も、イエメン国内には数多く存在します。

紛争による破壊や世界遺産の危機がニュースとなることも少なくありませんが、この地に息づいてきた歴史と文化を守り、将来世代へ引き継いでいくことは、世界全体の責任と言えるでしょう!

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