世界の歴史 現代史

【中東戦争を分かりやすく解説】複雑な歴史とその影響を理解しよう!

はじめに

中東地域は、アジアとアフリカ、ヨーロッパをつなぐ交通の要衝であるうえに、古くから宗教や文化、民族が交錯してきました。

そのため、世界史を語るうえで外せない場所でもあります。

なかでも「中東戦争」という一連の大きな紛争は、20世紀以降の国際政治や経済に大きな影響を及ぼしました。

中東戦争の背景

歴史的背景

中東戦争が勃発するには、歴史的・政治的に複雑な要因が絡み合っていました。

とりわけ大きな要因となったのは、パレスチナ地域におけるユダヤ人とアラブ人の対立です

20世紀初頭まではオスマン帝国の支配下にあったこの地域ですが、第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となりました。

イギリスはバルフォア宣言(1917年)で「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設する」ことを支持する一方、アラブ人にも自治を約束していました。

この曖昧な二重方針が、将来の対立の火種になっていきます。

背景の重要性

  • ヨーロッパの反ユダヤ主義: ヨーロッパにおける長年の迫害や差別から逃れ、新たな故郷を求めるユダヤ人のシオニズム運動が勢いを増していました。
  • アラブ民族主義の台頭: 1910年代以降、オスマン帝国からの独立を目指していたアラブ人にも民族主義の動きが強くなり、外部勢力の介入に敏感でした。
  • イギリスの委任統治政策: ユダヤ人移民をある程度認める一方で、アラブ側の反発を抑えようとしたイギリスの両立しない約束が、地域の緊張を高める要因に。

第二次世界大戦後の国際情勢

第二次世界大戦が終わると、国際連合(UN)が誕生し、植民地体制の再編が世界的に進んでいきました。

ヨーロッパではホロコーストによるユダヤ人虐殺が発覚し、その悲惨な経験から世界的にユダヤ人国家を求める声が急速に高まったのです。

一方で、アラブ諸国は自らの民族のアイデンティティを守るため、パレスチナ地域へのユダヤ人の大規模移住に激しく抵抗しました。

こうした国際政治の動きと民族主義運動が交錯した結果、パレスチナ問題は国際連合の場で大きく取り上げられることになり、やがて「中東戦争」の引き金が引かれるのです。

中東戦争という言葉の意味

「中東戦争」は、主にイスラエルとアラブ諸国の間で起きた複数の大規模戦争を総称した言葉です。

第一次中東戦争(1948年)第二次中東戦争(1956年)第三次中東戦争(1967年)、そして第四次中東戦争(1973年)が代表的です。

これらの戦争は、それぞれ歴史的・政治的な背景がやや異なり、世界経済や国際政治にも大きな影響を与えてきました。

パレスチナ自治区ガザのイスラム組織とイスラエルとの間で2023年10月から続いている紛争も、同様の歴史的に背景に根差しているのです。(2025年1月現在、両国間で停戦合意)

第一次中東戦争(1948年)

発生の背景

1947年、国際連合はパレスチナ分割案を採択し、パレスチナを「ユダヤ人国家」と「アラブ人国家」に分割することを提案しました。

ユダヤ人指導部はこれを受け入れ、一方のアラブ側は断固として反対。

同年、イギリスがパレスチナ委任統治を終了すると、すぐにイスラエルが国家として独立を宣言しました。

これに対し、周辺のアラブ諸国エジプト、ヨルダン、シリア、イラク、レバノンなど)は「パレスチナの地を取り戻す」という名目で一斉に侵攻を開始しました。

これが第一次中東戦争の始まりです。

戦争の展開

当初はアラブ諸国連合が攻勢を仕掛けましたが、やがて新生イスラエル軍(IDF)が組織的な防衛力と支援を得て反撃に転じます。

1949年までにはイスラエルが優勢となり、休戦協定が結ばれました。

その結果、イスラエルは国連の分割案以上の領土を獲得し、多くのパレスチナ難民が周辺のアラブ諸国へ流出することになります。

戦争の影響

  • パレスチナ難民問題: 数十万人規模のパレスチナ人が故郷を追われ、難民キャンプでの生活を余儀なくされました。これは今も続く大きな政治・社会問題です。
  • アラブ・イスラエル間の確執: 戦争は休戦したものの、根本的な問題(パレスチナの帰属など)は解決されず、将来的な紛争の種を残しました。
  • 国際政治への波及: 冷戦の文脈で、アメリカはイスラエルを支援し、ソ連はアラブ諸国に近づくという構図が浮き彫りになり、世界情勢に影響を及ぼします。

第二次中東戦争(1956年)—スエズ危機

背景とスエズ運河の重要性

第二次中東戦争は別名「スエズ危機」とも呼ばれます。

スエズ運河はヨーロッパとアジアを結ぶ重要な海上交通路で、当時はイギリスとフランスの共同出資によって建設・管理されていました。

1952年にエジプトでクーデターが起こり、ナセル大統領が誕生します。

ナセルはスエズ運河を国有化することを宣言し、これに激しく反発したのがイギリス、フランス、そしてイスラエルでした。

戦争の展開

1956年10月、イスラエルはシナイ半島に侵攻し、英仏はスエズ運河沿いを制圧するために軍事作戦を実施しました。

ところが、ソ連がエジプトを支援する姿勢を明確に示したのと同時に、アメリカも英仏の軍事行動に批判的な立場を取りました。

国際社会の圧力により、英仏イスラエル連合軍は撤退を余儀なくされ、エジプトのナセル政権は政治的勝利を収めます。

戦争の影響

  • アラブ諸国の団結強化: エジプトが「欧米列強」に勝利したというイメージが広まり、ナセルの威信は高まりました。アラブ世界においては「英仏の軍事力を退けた」という誇りが共有され、アラブ民族主義はさらなる勢いを得ます
  • 英仏の影響力低下: 英仏が国際社会の圧力に屈したことは、両国の中東における覇権が弱まったことを象徴的に示しました。
  • 冷戦構造の色濃化: ソ連がエジプトを支持し、アメリカが英仏に同調せず中立を保つ姿勢を見せたことで、中東地域が「米ソの代理対立の場」として一段と注目されることになります。

第三次中東戦争(1967年)—六日間戦争

戦争前夜の国際情勢

第三次中東戦争の直前までに、中東地域ではイスラエルと周辺アラブ諸国の緊張が高まっていました。

エジプトはシリア、ヨルダンなどと連携し、イスラエルとの国境付近への部隊配備を進めます。

対してイスラエルは周辺国に対する「先制攻撃」を積極的に検討し、軍事準備を加速させていました。

戦争の展開

1967年6月、イスラエルはアラブ諸国の奇襲を恐れ、先制攻撃を決行しました!

当時、イスラエル空軍はエジプト空軍の拠点を奇襲攻撃し、大部分の航空機を地上で破壊。同時にシナイ半島(エジプト)、ゴラン高原(シリア)、ヨルダン川西岸(ヨルダン)などを急速に制圧しました。

わずか6日間という短期間でイスラエルが圧倒的勝利を収めたことから、この戦争は「六日間戦争」と呼ばれます。

戦争の影響

  • 領土問題の深刻化: イスラエルはヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原、東エルサレムなどを占領しました。これ以降、占領地の扱いや入植活動が国際問題として深刻化します。
  • パレスチナ解放運動の活発化: パレスチナ人の立場がさらに追い詰められたことで、PLO(パレスチナ解放機構)を中心とした抵抗運動が国際社会で注目を浴びるようになりました。
  • アラブ世界の挫折感: 圧倒的な軍事力を誇ったイスラエルに対して、アラブ側が惨敗した事実は、アラブ民族主義の理想に大きな衝撃を与えました。一方で、アラブ諸国の反イスラエル感情は一層強まることになります。

第四次中東戦争(1973年)—ヨム・キプール戦争

戦争前夜の情勢

第三次中東戦争後、イスラエルは占領地を手放すつもりはなく、アラブ諸国はその喪失感や屈辱を抱え続けていました。

エジプトのサダト大統領は、外交的にイスラエルとの和平を模索しつつも、最終的には軍事的手段に訴えます。

1973年10月、イスラエルの最重要宗教行事であるヨム・キプール(贖罪日)に、エジプトとシリアは奇襲攻撃を仕掛けたのです。

戦争の展開

エジプト軍はスエズ運河を超えてシナイ半島に、シリア軍はゴラン高原へ侵攻しました。

当初はイスラエル軍が不意を突かれる形となり、アラブ側が優位に立ちます。

しかし、イスラエルはアメリカから多大な支援を受け、態勢を立て直し、反撃に出ることに成功。

最終的にはイスラエル軍がゴラン高原、シナイ半島ともに再び領土を守り抜きます。

戦争の影響

  • オイルショック: 第四次中東戦争の最中、アラブ諸国は石油を政治的な武器として利用することを決定。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、イスラエルを支持する国々への石油供給を制限または停止し、世界的なエネルギー危機を引き起こしました。日本も含め多くの国で経済混乱を招き、「オイルショック」として歴史に刻まれています!
  • 中東和平の一歩前進: この戦争により、アメリカとソ連も衝突の拡大を回避するために仲介に乗り出し、エジプトとイスラエルの間に限定的ではありますが和平に向けた動きが始まりました。後の1978年、エジプトとイスラエルはキャンプ・デービッド合意を結び、1979年には平和条約を締結します。
  • 国際政治の転換点: 石油戦略の成功により、アラブ諸国の政治的影響力が飛躍的に高まり、欧米諸国も中東政策を大きく見直す必要に迫られました。

中東戦争のその後と世界への影響

長期化するパレスチナ問題

中東戦争の核心にあるのは、やはり「パレスチナ問題」です。

イスラエルとアラブ諸国の大規模戦争は回数としては四次で一応の終息をみたものの、パレスチナ人の独立国家問題や難民問題は解決には程遠い状況です。

イスラエルの占領地政策や入植拡大、パレスチナ側のテロ・抵抗活動などが複雑に絡み合い、依然として国際社会の大きな懸念材料となっています。

石油と国際経済

第四次中東戦争を境に、アラブ諸国が石油を外交カードとして使用することが顕在化しました。

石油価格の変動が世界の景気に大きな影響を与えることを示したことで、各国は中東の産油国との関係強化や石油資源の安定確保を最優先課題とするようになります。

これは国際政治・経済の舞台で中東地域の存在感を一挙に高める結果となりました。

米ソ冷戦後の新たな展開

冷戦が終結すると、ソ連の支援を失ったアラブ諸国は新たな国際政治の潮流の中で再び立ち位置を模索することになりました。

一方、アメリカは湾岸戦争(1991年)やイラク戦争(2003年)を通じて中東地域への軍事的関与を深め、「テロとの戦い」の名のもとにさらなる介入を続けました。

現在の中東情勢への影響

中東戦争で蓄積された対立構造は、現在まで尾を引いています。

パレスチナ問題はもちろん、イラン・イラク戦争(1980~1988年)やアラブの春(2010年代)、シリア内戦、そして2023年に開始した紛争など、さまざまな形で紛争が噴出。さらに過激派組織の台頭もあり、中東は常に世界の注目を浴びる地域になっています。

まとめ

中東戦争は、複数回の大規模衝突を通じて大きな国際的インパクトをもたらしました。

その背景には、民族や宗教、そして大国の思惑が複雑に絡み合っています。

戦争自体はある程度沈静化しても、その根幹にあるパレスチナ問題や石油をめぐる利害は解決されておらず、中東地域の不安定要因は現代まで続いています。

世界の平和と安全保障、そして経済を語るときに、中東戦争で形成された地域の構図を理解しておくことはとても重要です。

ぜひ引き続き関心を持って、この地域の歴史と現在に目を向けてみてください!

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