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ヴェルサイユ体制とは?特徴・問題点・歴史的意義をわかりやすく解説

ヴェルサイユ体制とは?

ヴェルサイユ体制の基本的な意味

ヴェルサイユ体制(Versailles system)とは、第一次世界大戦後に結ばれた一連の講和条約や国際秩序を指す言葉です。

中心となるのは、1919年にドイツと連合国の間で結ばれたヴェルサイユ条約ですが、そのほかオーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国など旧同盟国に対しても、それぞれ別の講和条約が締結されました。

これらの講和条約によって形成された新しい国際秩序が、一般に「ヴェルサイユ体制」と呼ばれています。

第一次世界大戦の勝者である連合国が中心となって作り上げた世界のルール」というとイメージしやすいかもしれません。

どうしてヴェルサイユなの?

「ヴェルサイユ体制」という名称は、主要な講和条約であるヴェルサイユ条約に由来します。

ヴェルサイユ条約は、フランスのヴェルサイユ宮殿(実際には宮殿敷地内の鏡の間)で調印されたことからその名が付けられました。

第一次世界大戦の大きな争いが終わった後、平和への期待が高まる中で行われた歴史的な合意ですが、その内容は後々まで大きな議論を呼ぶことになるのです!

第一次世界大戦からヴェルサイユ体制成立までの流れ

ヴェルサイユ体制を理解するためには、まずは第一次世界大戦の背景を把握することが重要です。

どのような経緯で大戦が勃発し、どんなふうに終結へと向かったのでしょうか。

ここでは、戦争勃発から終戦、そして講和会議に至るまでの流れを見てみましょう。

ヨーロッパ列強の対立

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は世界各地で植民地支配を拡大し、自国の影響力を高めようとしていました。

とくにイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアなどが互いに競い合い、複雑な同盟関係を結んでいました。

  • 三国同盟:ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア
  • 三国協商:イギリス、フランス、ロシア

このような陣営間の緊張が高まる中、バルカン半島などでの民族紛争や各国の勢力拡大への思惑が絡み合い、いつ大規模な戦争が起きてもおかしくない状態となっていたのです。

第一次世界大戦の勃発

1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントがボスニアのサラエボで暗殺されました(サラエボ事件)。

これをきっかけにオーストリアがセルビアに宣戦布告し、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスなどが次々と参戦。

戦火は瞬く間に欧州全域に広がりました。

アメリカの参戦と大戦の終結

1917年、アメリカ合衆国がドイツの無制限潜水艦作戦などを理由に参戦を決定

工業力と豊富な資源を背景に、アメリカの参加は連合国側に大きな勢いをもたらしました。

一方、ロシアでは革命が起こり、社会主義政権が成立。

新政権はドイツと単独講和(ブレスト=リトフスク条約)を結び、戦線離脱を図ります。

しかし、ドイツなど中央同盟国はアメリカの参戦によって次第に劣勢へ。

1918年11月、ドイツが休戦協定を結び、第一次世界大戦は終結しました。

パリ講和会議

戦後、平和条約を締結して世界の新秩序を作り出すため、1919年1月からパリ講和会議が開かれます。

中心となったのは、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン、イギリス首相デビッド・ロイド・ジョージ、フランス首相ジョルジュ・クレマンソーの3人(「ビッグスリー」)でした。

各国の利害がぶつかり合いながら、最終的にヴェルサイユ条約などの一連の講和条約が取りまとめられていきます。

ヴェルサイユ条約の特徴と内容

ヴェルサイユ体制の核心となるのは、ドイツと連合国との間で結ばれたヴェルサイユ条約です。

この条約では、ドイツに対する厳しい軍備制限や莫大な賠償金などが定められ、戦後の国際秩序を方向づける重要な役割を果たしました。

ドイツへの制裁・軍備制限

ヴェルサイユ条約が最も注目されるのは、ドイツへの厳しい制裁措置です。

具体的には、次のような内容が含まれています。

  1. 領土の割譲:アルザス・ロレーヌ地方をフランスへ返還。ポーランド回廊の設定によりドイツ領を分断する形でポーランドに領土を割譲するなど。
  2. 軍備制限:陸軍10万人規模への縮小、空軍保有の禁止、海軍力の大幅削減など。
  3. 賠償金の支払い:連合国側の戦争被害に対する多額の賠償金(当初は1320億金マルクとされた)が科されました。

これらの措置は、ドイツの再軍備を防ぎ、ヨーロッパに再び大規模な戦争を起こさせないことを主な目的としていました。

しかし、この厳しい条件が後のドイツ社会に大きな不満と混乱をもたらし、ヴェルサイユ体制への反発を呼ぶ一因となっていきます。

ウィルソンの平和原則

ヴェルサイユ条約の背景には、アメリカ大統領ウィルソンの「平和原則(14か条)」という理想主義的なビジョンもありました。

彼は民族自決(各民族が自らの将来を決める権利)や国際連盟の設立などを提唱し、戦争の再発を防ぎ、世界平和を維持しようと努めます。

しかし、イギリスやフランスはドイツに対して厳しい処罰を求めていたため、ウィルソンの平和原則は十分に反映されないまま、最終的にはドイツにとって過酷な内容が多く盛り込まれる形となりました。

国際連盟の設立

ヴェルサイユ条約に基づき、世界初の国際平和機構である国際連盟が設立されました。

目的は国際紛争の平和的解決と、再び大規模な戦争が起きないようにすること。

しかし、アメリカ合衆国が国内事情で加盟しなかったことや、実効力の不足などが課題となり、後に国際連盟は大きな役割を果たせないまま瓦解していきます。

ヴェルサイユ体制がもたらした各国への影響

ヴェルサイユ体制は、ドイツをはじめとする敗戦国だけでなく、戦勝国や新興国など世界各国に様々な影響を与えました。

ここでは、それぞれがどのような形で体制に組み込まれ、どのような問題が生じたのかを見ていきましょう。

敗戦国:ドイツの窮地と不満

先ほど述べたように、ドイツは多大な賠償金や軍備制限、領土の喪失などを強いられました。

これにより、戦後のドイツ経済は疲弊し、インフレーションなど深刻な経済混乱に見舞われます。

さらに、国民の間には「過度に厳しい講和条約を押し付けられた」という強い不満がくすぶり続けました。

後にナチス・ドイツが台頭してくる背景には、こうしたドイツの不満や不安定な政治・経済状況が大きく関係しています。

オーストリア=ハンガリー帝国の解体

オーストリアとハンガリーは別の国として講和条約を結ぶことになります。

領土が分割され、チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアなど複数の新国家が誕生しました。

ヨーロッパ地図は大きく書き換えられ、民族問題はさらに複雑化していきます。

戦勝国側の立場:イギリスとフランス

戦勝国であるイギリスやフランスは、ドイツを弱体化させることでヨーロッパの勢力バランスを保とうとしました。

しかし、あまりにも大きな賠償金をドイツに課した結果、ドイツ経済が崩壊の危機に陥ると、それはヨーロッパ全体の経済不安につながります。

結局、ドイツを放っておくわけにもいかず、譲歩策や支援策を検討せざるを得なくなりました。

アメリカの孤立傾向

大戦の勝利を主導したはずのアメリカですが、議会が国際連盟加盟に反対したため、国内では孤立主義が強まります。

ヨーロッパに深く関与することを避けるムードが支配的となり、せっかく提案された平和原則が国際社会で十分に活かされない結果になってしまいました。

アジア・アフリカ地域への影響

ヴェルサイユ体制の影響はヨーロッパだけにとどまりません。

戦勝国であった日本は、中国の山東半島の旧ドイツ権益を獲得しましたが、この動きは中国の反発(五・四運動)を招きます。

また、戦勝国の領土拡張によって植民地支配がそのまま継続された地域も多く、アジアやアフリカの人々の民族自決をめぐる不満も募っていきました。 

ヴェルサイユ体制の問題点

ヴェルサイユ体制は大戦後の世界秩序を再構築する試みではありましたが、実際には多くの課題や矛盾点がありました。

ここでは、その代表的な問題点について詳しく見ていきます。

「過度なドイツ責任論」と賠償問題

ヴェルサイユ体制において、第一次世界大戦の原因はほぼドイツにあるとされました。

条約前文の「戦争責任条項」では、ドイツとその同盟国が全責任を負うと明示され、その結果として天文学的な賠償金が課されたのです。

しかし、戦争の根本的な原因は複雑な国際関係にあり、ドイツ一国のみが責任を負うのは不公平だという声が根強く存在しました。

過度な制裁はドイツの経済と政治を不安定化させ、欧州全体の火種を残す結果となりました。

民族自決の限界

ウィルソンが掲げた民族自決の原則は、チェコスロヴァキアやポーランドの独立といった新国家誕生の原動力となりました。

一方で、オーストリアやドイツのドイツ民族同士の統合などは認められず、「都合の良い民族自決」という批判も浴びることになります。

民族境界と国境線が必ずしも一致しない問題はその後も紛争を生み出し続けました。

国際連盟の弱体さ

国際連盟は理想主義的な国際協調の象徴と期待されました。

しかし、軍事的制裁能力がないうえに、アメリカや後にソ連、ドイツなど主要国が未加盟または脱退していくなど、加盟国が限定されていました。

これでは紛争を未然に防ぐことや、強力に制裁を下すことは難しかったのです。

欧州以外への配慮不足

ヴェルサイユ体制は基本的にヨーロッパ中心主義に基づいて作られました。

アジアやアフリカの植民地では、戦後も列強による支配体制が継続されるケースが多く、住民の権利や民族自決の意向は大きく無視されたままでした。

「世界の平和と安定」を掲げながらも、その実は限定的なものであったと言えます。

ヴェルサイユ体制の崩壊とその後

ヴェルサイユ体制が抱えた問題は、後の国際情勢に深刻な影響を与えました。

特に大きいのは、世界恐慌による経済的打撃と、ドイツでのナチス政権の台頭です。

それらが結びつき、新たな世界大戦への道筋を作っていくことになりました。

世界恐慌と国際経済の混乱

1929年にアメリカで株価が大暴落し、世界恐慌が始まります。

アメリカからの融資に頼っていたドイツは深刻なダメージを受け、失業率の急上昇と経済混乱に陥りました。

元々ヴェルサイユ体制下で重い賠償金を負っていたドイツの状況は、これによってさらに悪化します。

ナチス・ドイツの台頭

経済的不安とヴェルサイユ条約への恨みは、ドイツ国民の間で激しい政府批判や政治的混乱を引き起こします。

そんな中、アドルフ・ヒトラー率いるナチ党(ナチス)「ヴェルサイユ体制の打破」「国民生活の改善」というスローガンを掲げて急速に支持を拡大。

1933年にヒトラーが首相に就任すると、ドイツは再軍備宣言やラインラント進駐といった条約違反を次々に強行し、ヴェルサイユ体制を事実上無力化していきます。

第二次世界大戦への道

1939年にドイツがポーランドへ侵攻すると、イギリス・フランスは対ドイツ宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発します。

こうしてヴェルサイユ体制は完全に崩壊し、新たに戦後の世界秩序を模索する流れへと移ることになるのです。

まとめ

本記事では、ヴェルサイユ体制について理解しておきたいポイントを網羅的に解説しました。

ぜひ、教科書やほかの史料とあわせて学習を深めてみてくださいね!

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