イギリスってどんな国?
イギリスはヨーロッパ北西部に位置する島国で、正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」です。
イギリスにはイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4つの構成体がありますが、日本で「イギリス」と呼ぶときは多くの場合「イングランド」の歴史や文化がイメージされることが多いです。
この記事では、とくにイングランドを中心とした歴史を簡単にまとめ、さらにスコットランドやウェールズの動きにも軽く触れていきます。
古代~ローマ支配前のイギリス
先史時代のブリテン島
イギリスの歴史は、実に何万年も前の先史時代にさかのぼります。
当時のブリテン島には、石器時代の狩猟採集民が暮らしていました。よく知られているのは、巨大な石の遺跡「ストーンヘンジ」です!
この遺跡は紀元前2500年ごろに造られたと考えられており、その用途は宗教的な祭式だったのでは?と言われていますが、実際には解明されていない部分も多く、謎が多い遺跡として有名です。
やがて、鉄器時代になるとケルト人がヨーロッパ大陸から移住してきて、ブリテン島で独自の文化を育んでいきました。
彼らは部族ごとに分かれており、それぞれが小さな王国のような形を築いていたのです。
ローマによる支配(紀元1世紀~5世紀)
ローマ帝国の侵略
イギリスの歴史を語る上で外せないのが、ローマ帝国の支配です!
ローマ帝国は西暦43年に現在のイングランド南部へ軍を派遣し、徐々にブリテン島の南~中部を征服していきました。
当時のブリトン人(ケルト系の住民)たちは抵抗しましたが、やがてローマの支配を受け入れざるを得なくなります。
ローマ支配下でのイギリス
ローマ帝国が統治していた期間は約400年間続きました。
その間に街道や都市づくりが進み、ローマ風のお風呂や建築、軍事拠点などが整備されます。
例えば、イングランド北部にある、ローマ皇帝ハドリアヌスが築いた「ハドリアヌスの長城」が有名です!
これはローマ領ブリタニアを守るために建設された防衛施設で、現在は世界遺産にも登録されています。
ローマ支配下の間、文字やキリスト教など大陸の文化がブリテン島に広まりました。
一方で、ローマの政治的混乱が進むと、帝国はブリテン島から兵力を徐々に引き揚げるようになります。
そして5世紀のはじめには、ローマ帝国がブリテン島から完全に撤退!
その後、ゲルマン系のアングロ・サクソン人が流入し、ブリテン島は新たな局面を迎えるのです。
アングロ・サクソン時代(5世紀~11世紀)
ゲルマン系民族の定住
ローマ軍が撤退した後にやってきたアングロ・サクソン人たちは、ブリテン島に多くの王国を建てました。
代表的な王国としては、ノーサンブリア、マーシア、ウェセックスなどが挙げられます。
彼らは元々は複数の部族から成り立っていましたが、ブリテン島で定住しながら独自の文化や言語(古英語)を発展させていきました。
キリスト教の広がり
この時代には、キリスト教が本格的に広まったことも重要なポイントです。
アングロ・サクソン人がキリスト教を受け入れることで、修道院や大聖堂が各地に建てられ、文書の記録が進みます。
こうしてイギリスの歴史や文化が体系的に形づくられていくことになりました。
ヴァイキングの侵攻
8世紀頃から、北欧(デンマークやノルウェーなど)のヴァイキングがイングランド各地に攻め込むようになりました!
特に9世紀後半にはイングランド東部を制圧して「デーンロウ」と呼ばれる支配地域を築き上げます。
これに対抗したのがウェセックス王国のアルフレッド大王。
彼はヴァイキング勢力との闘いに勝利し、イングランドの統一へと向かう一歩を踏み出しました。
ノルマン・コンクエストと中世イングランド(11世紀~15世紀)
ノルマン朝の成立
1066年はイギリス史を語る上で非常に有名な年!
ノルマン公ウィリアム(ウィリアム征服王)が、イングランド王位を主張して侵攻を開始し、「ヘースティングズの戦い」で当時のイングランド王ハロルド2世を破ります。
こうしてウィリアムはイングランド王ウィリアム1世として即位し、イングランドの支配者となりました。
ノルマン朝の成立によって、イングランドでは貴族たちの言語がノルマン語に移行し、フランス文化の影響が強くなります。
また、封建制度がより強固になり、王と貴族の関係が複雑に絡み合う中世的な社会体制が整っていきました。
プランタジネット朝とマグナ・カルタ
12世紀半ばにはプランタジネット朝が成立し、ヘンリー2世やリチャード1世(獅子心王)といった有名な王が続きます。
中世ヨーロッパの中で強力な王権を誇ったプランタジネット朝ですが、権力をめぐる対立も絶えませんでした。
とりわけ重要なのが、1215年にジョン王が貴族たちの反発を受けて承認した「マグナ・カルタ(大憲章)」です!
これは王権を制限し、貴族や自由民の権利を守る画期的な文書とされ、後の民主主義や憲法の基礎の一つとみなされています。
百年戦争と薔薇戦争
14世紀から15世紀にかけて、イングランドはフランスとの間で「百年戦争」を繰り広げます。
エドワード3世がフランス王位を主張したのがきっかけで始まりましたが、長期にわたる戦争で両国とも疲弊し、最終的にはイングランドが大陸の領土のほとんどを失う形で終わります。
さらに、イングランド国内ではランカスター家とヨーク家による王位継承をめぐる内乱「薔薇戦争」が起こります!
最終的にはランカスター家を継ぐヘンリー・チューダーが勝利し、1485年にヘンリー7世として即位し、チューダー朝を開くのです。
チューダー朝(15世紀後半~17世紀前半)
ヘンリー8世と宗教改革
チューダー朝といえば、ヘンリー8世の宗教改革が有名です!
カトリック教会との対立からイングランド国教会を成立させ、自らがその長となりました。
この宗教的な動きは政治にも大きな影響を与え、後のイギリスの宗教対立や国際関係の複雑化の発端ともなっていきます。
エリザベス1世の時代
ヘンリー8世の娘であるエリザベス1世の治世は、16世紀後半のイングランドを「エリザベス朝の黄金期」と呼ばれるほどの繁栄に導きました
海賊フランシス・ドレークの活躍やスペインの無敵艦隊を破ったことなどにより、イングランドは海洋国家としての地位を高めることになります。
文化面ではシェイクスピアなど、多くの文芸人が活躍した時代としても有名ですね!
スチュアート朝と清教徒革命(17世紀)
王権と議会の対立
エリザベス1世が亡くなった後、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、スチュアート朝が始まります。
しかし、この時代は王権と議会の対立が激化することに。
チャールズ1世の専制的な政治に反発する形で議会勢力が力をつけ、ついに内戦(清教徒革命)が勃発します。
クロムウェルと共和制
内戦の結果、議会派が勝利し、チャールズ1世は処刑されました!
その後、オリバー・クロムウェルを指導者とする共和制(コモンウェルス)が誕生します。
しかし、クロムウェルの独裁的な政治にも不満が高まり、彼の死後、王政復古としてチャールズ2世が王に迎えられることになりました。
名誉革命と立憲君主制
王政復古後もカトリックとプロテスタントの対立は続き、ジェームズ2世のカトリック政策に反発した議会は1688年にウィリアム3世とメアリー2世を共同統治者として迎え入れ、ジェームズ2世を追放する「名誉革命」が起きます。
この革命は流血がほとんど伴わなかったために名誉革命と呼ばれています。
これにより、議会の権利宣言が承認され、イギリスの立憲君主制が確立!王の権力は制限され、議会が国政の中心となる仕組みが整ったのです。
大英帝国の成立と拡張(18世紀~19世紀)
ジョージ王朝と産業革命
スチュアート朝の断絶後、ドイツのハノーファー選帝侯からジョージ1世が王となり、ジョージ王朝(ハノーヴァー朝)が始まります。
この時期には「産業革命」が起こり、イギリスは工場制機械工業による経済発展を成し遂げました!
紡績機や蒸気機関の登場など技術革新が続き、都市化が進む一方で、貧富の差や労働環境の悪化など社会問題も顕在化していきます。
海外植民地の拡大
18世紀から19世紀にかけて、イギリスは世界各地で植民地を拡大し、大英帝国としての地位を確立!
北米やインド、アフリカ、アジア各地に影響力を広げることで、当時は「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるほどの巨大な帝国を築き上げました。
しかし、アメリカ独立戦争(1775~1783年)などで一部の植民地を失うなど、いつも順風満帆だったわけではありません。
ヴィクトリア女王の時代
19世紀の半ばからはヴィクトリア女王が長期にわたって君臨し、「ヴィクトリア朝」と呼ばれる繁栄期を迎えます。
産業の発展や植民地の拡大により、イギリスは世界経済の中心になりました。
ロンドンでは万国博覧会が開催され、技術力や文化を世界に示すなど、イギリスがグローバルな舞台で栄光を誇った時代でもあります。
20世紀のイギリス:戦争と再建
第一次世界大戦と社会変革
20世紀に入ると、イギリスはヨーロッパを中心に発生した第一次世界大戦(1914~1918年)に参戦。
戦争による多大な犠牲を払いつつも、戦後の社会では労働者や女性の権利が拡大し、社会変革が進みます。
女性参政権の獲得や労働党の台頭など、新しい時代に向けた動きが本格化していくのです。
第二次世界大戦とチャーチル
第二次世界大戦(1939~1945年)では、イギリスはナチス・ドイツの空襲に苦しめられながらも、ウィンストン・チャーチル首相の指導のもとで徹底抗戦を続けます。
最終的に連合国側が勝利するものの、イギリスは戦争の被害と莫大な戦費によって疲弊。
戦後の国際情勢では、アメリカとソ連が台頭する中、かつてのような「世界の覇権国」の座を徐々に失っていきました。
福祉国家の整備と植民地の独立
第二次世界大戦後、イギリスは国内の再建に力を注ぎ、社会保障制度(NHS: 国民保健サービス)を整備していきます。
また、大英帝国の植民地は次々と独立し、イギリス連邦として緩やかな協力関係を保つ形へ移行しました。
これにより、イギリスはかつてのような領土的な拡張主義からは離れ、新たな国際社会の中での地位を模索していくようになります。
EUとの関係と現代イギリス
EU加盟と離脱
第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国は経済協力や政治的安定のために、欧州共同体(EC)や欧州連合(EU)を結成。
イギリスも1973年に加盟しましたが、EUへのスタンスは常に揺れていました。
2016年に行われた国民投票でEU離脱(ブレグジット)が決定し、長年の議論の末に2020年についに正式離脱!
その影響は、国内外にさまざまな形で表れています。
現代に至るまで
現代のイギリスは、王室の伝統を大切にしながらも、国際的な文化や経済の変化に常に対応しようとしています。
金融業やサービス業が発達し、ロンドンは世界的な金融・文化の中心地としての地位を維持しています。
一方で、スコットランドの独立問題や北アイルランドの政治問題など、国内には多くの課題が残っているのも事実です。
イギリス史をざっくり振り返ってみよう!
いかがでしたか?イギリスの歴史は本当に長く、また複雑です!
以下のポイントを押さえておくと、イギリス史を全体的にイメージしやすくなります。
- 古代ローマの支配で文明が持ち込まれ、ブリテン島の基盤が整備された
- アングロ・サクソン人の到来やヴァイキングの侵攻を経て、イングランド王国が形成された
- ノルマン・コンクエスト(1066年)でノルマン王朝が成立し、封建制度が本格化
- マグナ・カルタ(1215年)などで王権が制限され、議会の力が拡大していった
- チューダー朝では宗教改革やエリザベス1世の治世によるイングランドの海洋進出が進んだ
- 清教徒革命から名誉革命に至る過程で、立憲君主制が確立
- 産業革命や大英帝国の拡大で世界をリードしたが、二度の世界大戦や植民地の独立を経て大きな変化を迎えた
- EU離脱(ブレグジット)を含めた現代の動向も、イギリスの今後を左右する重要なトピックになっている
このように、イギリスの歴史は多くの民族や国際関係が絡み合いながら、徐々に独自の国家・社会制度を作り上げてきたストーリーといえます。
それぞれの時代の詳細を掘り下げると、さらに魅力的なエピソードや人物の活躍が盛りだくさん!
ぜひご自身でも興味のある時代を掘り下げ、イギリスの歴史を楽しんでみてくださいね。