ウクライナという国の位置づけ
ウクライナは、ヨーロッパ大陸の東部に位置する国です。
ロシアやベラルーシ、ポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、モルドバといった国々に囲まれており、その地理的条件から、古くからさまざまな国や民族が交わる「交差点」のような役割を担ってきました。
ウクライナの国土は平原が多く、肥沃な土壌(黒土地帯:チェルノーゼム)によって農業が盛んな地域でもあります。
しかし、その豊かな土地をめぐって、歴史上数多くの争いや支配が繰り返されてきたのです。
何より現在も、ロシアとの交戦が続いている状況です。
ウクライナの歴史を振り返ると、まさに「東西の文化の架け橋」としての役割を担いながらも、幾度もの領土の奪い合い、独立への苦闘、そしてアイデンティティ確立への道のりがあったことがわかります!
キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の時代
ウクライナの歴史を語るうえで欠かせないのが、9世紀頃から存在した「キエフ・ルーシ(キエフ大公国)」です。
現在のウクライナの首都であるキエフを中心に栄えたこの国家は、東スラヴ人が建国した最初の国のひとつとされています。
- 形成期(9世紀~10世紀頃)
ノヴゴロド(現在のロシア北西部)で勢力を持ったリューリク朝の系譜が南下し、キエフを拠点として東スラヴ世界を束ねました。 - 全盛期(10世紀後半~11世紀)
988年にウラジーミル1世がキリスト教(正教)を受容したことを機に、東方正教会の文化が大きく花開きます。
また、当時のキエフは商業地としても重要な位置にあり、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易ルートの要衝として発展しました。 - 衰退期(11世紀後半~)
後継者争いや地方への権力分散などにより、キエフ・ルーシは徐々に小国家へと分裂していきます。
その後、13世紀にはモンゴルの侵攻(タタールのくびき)を受け、支配を被ることとなりました。
キエフ・ルーシは、ウクライナだけでなくロシアやベラルーシの文化・国家形成にも大きな影響を与えた存在です。
この時代が後の東スラヴ諸国のアイデンティティの基盤となっていったのです!
ポーランド・リトアニア支配とコサックの登場
キエフ・ルーシがモンゴル帝国の支配下に入ったのち、ウクライナ地域の多くはポーランド王国やリトアニア大公国の影響下に置かれます。
14世紀頃からは、ポーランドとリトアニアが合同で成立させたポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニア連合)に取り込まれる形で、ウクライナ南部やキエフ地方は再編されていきました。
この時期、ウクライナにはコサックと呼ばれる自由な戦士集団が登場します。
コサックはステップ地帯(広い草原地帯)に自律的な共同体を築き、騎馬戦術を得意とするなど独自の文化を形成しました。
彼らの存在は、当時のウクライナ人(正教信仰を持つ農民や逃亡者など)にとって、民族の誇りや自立精神を象徴するものでもありました!
17世紀には、コサックが主導する形でポーランド・リトアニアからの独立を目指す運動(フメリニツキーの乱)も起こります。
この乱は一時的に自治権を勝ち取るきっかけとなりましたが、最終的にはロシア(モスクワ大公国)との保護条約を結び、ロシアとの結びつきが強化される流れが生まれるのです。
ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の支配
やがて、東側のウクライナはロシア帝国に併合され、さらに西側の一部はオーストリア=ハンガリー帝国の支配を受ける時代が到来します。
18世紀末のポーランド分割などの結果、ウクライナの領域は東西に分割されてしまいました。
- 東部(ロシア帝国支配)
ウクライナ語の使用や民族文化は、しばしば制限されたり、同化政策を受けたりしました。
一方で、農業経済は大きく発展し、ロシア帝国を支える穀倉地帯として重用されます。 - 西部(オーストリア=ハンガリー帝国支配)
西ウクライナの中心都市リヴィウ(リヴィフ)などでは、ある程度の自治や文化活動が認められるケースもありました。
特に知識人を中心に、ウクライナ人としての民族意識や文学運動が盛り上がり、後の独立運動につながる土台を築いたのです。
こうした「東はロシア、西はオーストリア=ハンガリー」という分割統治の長期化により、ウクライナは近代に至るまで複雑な状況に置かれ続けました。東西で異なる支配を受けながらも、ウクライナ民族としてのアイデンティティが少しずつ育まれていったのです。
第一次世界大戦からソビエト連邦時代へ
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各地ではナショナリズムが高まり、ウクライナでも独立の機運が徐々に高まります。
しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ウクライナの地は再び大国間の戦いの場となりました。
戦後、ロシア帝国が崩壊に向かう中、短期間ではありますがウクライナ人民共和国という独立国家が樹立されます。
しかし、内戦や周辺諸国との紛争の波にのまれ、うまく安定を確保することができませんでした。
その後、ウクライナはソビエト連邦(ソ連)の構成共和国として組み込まれていきます。
1922年にソ連が成立すると、「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」が誕生し、正式にソ連の一部となったのです。
ここからは長いソビエト時代が続きます。
ホロドモール(1932~1933年)
ソビエト時代のウクライナ史で、特に忘れてはならない悲劇がホロドモール(大飢饉)です。
スターリン政権下で進められた農業集団化政策や穀物の大量徴発により、ウクライナでは1932~1933年にかけて大規模な飢饉が発生し、数百万人規模の犠牲者が出たとされています。
ウクライナの人々にとって、ホロドモールは今も深い傷跡を残しています。
第二次世界大戦
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツはソ連と一時的に不可侵条約を結びながらも、1941年には急襲を決行。
ウクライナの地は、再び大規模な戦場となってしまいます。
戦争末期にはソ連がナチス・ドイツを追い返し、ウクライナを奪還しますが、多大な人的・物的損害が残されました。
ソビエト後期から独立へ
第二次世界大戦後、ウクライナは依然としてソ連の一部でしたが、工業化の進展や都市の拡大など、経済的にはある程度の発展を見せます。
しかし、政治面ではモスクワに対する強い依存や言論統制など、制約の多い状態が続きました。
1980年代後半になると、ソ連の指導者ゴルバチョフによるペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)の波が訪れます。
それをきっかけに、ウクライナ国内でも民主化や民族独立を求める声が一気に高まります。
そして、ソ連崩壊の直前となる1991年8月24日、ウクライナは正式に独立を宣言しました!
この日はウクライナの国民にとって大きな転機となり、現在に至るまで「独立記念日」として祝われています。
独立後のウクライナ:苦悩と挑戦
独立を勝ち取ったウクライナですが、そこからの道のりは決して平坦ではありませんでした。
ソビエト時代からの社会体制の変革や経済の立て直し、政治腐敗の問題など、課題は山積みでした。
オレンジ革命(2004年)
2004年に行われた大統領選挙をめぐり、選挙結果の不正疑惑から起こった市民運動が「オレンジ革命」として知られています。
多くの市民が首都キエフの独立広場に集まり、大統領選のやり直しを求める抗議を行いました。
その結果、再選挙が実施され、改革派のユシチェンコ氏が大統領に就任します。ウクライナ国内に民主化への期待が高まった象徴的な出来事でした。
ユーロマイダン(2013~2014年)
しかし、その後も政治腐敗や経済停滞は続き、国民の不満はくすぶり続けます。
2013年には、当時のヤヌコーヴィチ大統領がEUとの連合協定調印を拒否し、ロシア寄りの政策を打ち出したことに対して、再びキエフの独立広場(マイダン)に大規模な抗議デモが発生しました。
これが「ユーロマイダン(マイダン革命)」です。最終的にはヤヌコーヴィチ大統領が国外逃亡し、親米派の政権が誕生しました。
ただし、この混乱をきっかけに、ウクライナ南部のクリミア半島は事実上ロシアに併合され、さらに東部地域でも親ロシア派武装勢力との紛争が続きます。
ウクライナの主権と領土が脅かされる事態となり、国際社会を巻き込む深刻な問題となったのです。
2022年からのロシアによる侵攻
2022年2月、ロシアはウクライナへの全面的な軍事侵攻を開始しました。
この侵攻は、2014年のクリミア併合と東部紛争に続く、ウクライナの主権と領土を脅かす深刻な事態です。
多くの都市が攻撃を受け、民間人を含む多数の犠牲者が出ています。
ウクライナ国民は祖国を守るため、徹底抗戦を続けており、国際社会からも様々な支援が行われています。
ウクライナ侵攻の背景
歴史的な背景
キエフ・ルーシの遺産
ロシアとウクライナは、共に東スラヴ文化を起源とし、キエフ・ルーシという国家を共有した歴史があります。
ロシアは、ウクライナを自らの歴史の一部とみなし、「兄弟国」であるという認識を持っています。
ソ連時代
ウクライナは、ソ連時代にはロシアの影響下に置かれ、言語や文化を制限されることもありました。独立後も、経済的にロシアに依存する部分があり、両国の関係は複雑です。
政治的な背景
NATOの東方拡大
ソ連崩壊後、NATOは東ヨーロッパ諸国への拡大を続け、ウクライナもNATO加盟を希望しています。
しかしウクライナがNATOに加盟すれば、ロシアとの国境にNATO軍が展開することになり、軍事的な圧力が増すことになります。
したがってロシアは、NATOの東方拡大を自国の安全保障に対する脅威とみなし、強く反発しています。
旧ソ連圏における影響力維持
ロシアは、旧ソ連圏における自国の影響力維持を重視しており、ウクライナをその重要な一部と位置づけています。
ウクライナが西側諸国に接近することは、ロシアの影響力低下につながると懸念しています。
また前章にて説明したとおり、2014年のユーロマイダン革命で親ロシア派のヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、親欧米派の政権が誕生しました。
ロシアはこの政権交代を西側諸国による介入とみなし、ウクライナへの介入を強めるようになりました。
このほかにも経済的要因など、今回のウクライナ侵攻の背景には複雑な要因が絡み合っています。
戦争の終結の見通しは立っておらず、長期化による更なる被害の拡大が懸念されています。
現在進行形で続いているこの戦争に対して、遠い国のこと思わず継続的に関心を持ち続けることが、私たちにできることの第一歩なんです。
まとめ:ウクライナの歴史から見えるもの
ここまでウクライナの歴史をざっと振り返ってみると、地政学的な要因から常に大国の狭間に置かれ、その都度さまざまな支配を受けてきたことがわかります。
また、その中で育まれた民族意識や文化、そして独立への強い願いが、ウクライナの人々を支える大きな柱となっているのです!
- キエフ・ルーシからの文化的・歴史的遺産
- コサックによる自由精神と自治意識の高揚
- ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ポーランドなどによる分割支配の歴史
- ソビエト時代の抑圧と大飢饉(ホロドモール)
- 独立後の民主化運動と西欧との連携への歩み
- 現在も続く東部紛争と領土問題
ウクライナの歴史は複雑ですが、その背景を知ることで、今ウクライナが直面している課題や、国民が求める価値観(自由・民主主義・主権)がどのように形作られたかが見えてきます。
ぜひ、より詳しく学びたい方は、さらに専門的な文献やニュースをチェックしてみてください!