日本の歴史

自由民権運動をわかりやすく解説!背景から主要人物、現代への影響

はじめに – 自由民権運動とは?

この記事では、日本の近代史を語るうえで欠かせない自由民権運動について、初学者の方でもイメージしやすいようにやさしく解説していきます。

自由民権運動とは、明治時代初期におこった、国民が政治に参加できる権利を求める大きなムーブメントのこと。

民主的な社会をめざして活発に展開された運動であり、日本の憲法や議会制がどのように形づくられていったのかを知るための重要なキーワードです!

自由民権運動の背景を知ろう!

明治維新と中央集権体制の確立

自由民権運動を理解するためには、明治時代初期の政治体制をイメージすることが大切です。

江戸幕府が崩壊し、明治政府が誕生したのが1868年(明治元年)。

このとき、新政府は近代国家を築くためにさまざまな改革に着手しました。

廃藩置県によって藩がなくなり、中央から県知事が任命される形で中央集権体制が進められます。

当時の政府は、一刻も早く欧米列強に追いつくことを目標として、富国強兵や殖産興業などの政策を打ち出しました。

しかし、そうした大きな変革の陰で、旧士族を含む多くの人々が不安定な生活に陥ったり、国民の声が政治に反映されない仕組みがつくられていったりという問題も同時に生まれました。

国民の不満と「言論の自由」への渇望

明治政府の改革は急激かつ強引な面もありました。

地租改正によって農民は負担が大きくなり、士族は廃刀令などの政策によって特権を失い、生活の糧を失った者もいました。

さらには、政府の政策に異議を唱えても、当時はまだ「国民が直接政治に参加できる場」が整っていなかったのです。

このように、急激な近代化の裏で生まれた不満や不公平感が人々の間にくすぶっていました。

そこで「自分たちの声を政治に反映させたい!」という要求が高まり、自由民権運動が盛んになっていきます。

これは言わば、国民が自分たちの権利や自由を求める政治参加の運動の始まりでした。

自由民権運動を牽引した人物たち

板垣退助(いたがき たいすけ) – 「民選議院設立建白書」の提唱者

自由民権運動といえばまず思い浮かぶのが板垣退助でしょう。

彼は土佐藩(現在の高知県)出身で、戊辰戦争や明治政府での経験を経て、早くから国民の代表が議会に参加すべきだと考えていました。

1874年に板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが「民選議院設立建白書」を政府に提出したのは有名なエピソードです。

これは、国民の代表による議会(国会)をつくって、そこで政策を決めるべきという主張。

明治政府に対し「もっと国民の声を取り入れてほしい!」と正面から訴えたのです。

後藤象二郎(ごとう しょうじろう) – 開明的な改革者

後藤象二郎もまた、板垣退助と同じく土佐出身で、明治初期の政府において行政改革に取り組んだ人物です。

彼は大久保利通のもとで活躍したものの、後に政府を離れ「民選議院設立建白書」に名を連ねました。

全国各地で演説会を開催するなど、言論による啓蒙活動を推進した点も見逃せません。

後藤は商工業を重視し、殖産興業政策とも結びつけた近代化策を展開していきました。

植木枝盛(うえき えもり) – 自由民権運動の理論家

植木枝盛は、自由民権運動の思想的バックボーンを築いた理論家の一人です。

彼は「東洋大日本国国憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」という独自の憲法草案を作成しました。

その内容には、議会制、国民の権利保障、地方自治など、当時としてはかなり先進的な考え方が盛り込まれていました。

植木はとくに「人民主権」「平等」などの概念を重視し、日本国内で言論や結社の自由を勝ち取る必要性を強く訴えました。

そうした考えは、後の大日本帝国憲法には十分に反映されなかったものの、のちの憲法(日本国憲法)に通じる流れの源流と言えます。

中江兆民(なかえ ちょうみん) – フランス思想の導入

もうひとり、忘れてはならないのが中江兆民です。

フランスに留学し、ルソーの社会契約説などを日本に紹介した人物で、「東洋のルソー」と呼ばれることも。

中江兆民が翻訳した思想は、自由民権運動に大きなインスピレーションを与え、人々の政治意識を高める原動力となりました。

彼の思想を通じて、「国民が主権をもつこと」「政府の権力は国民からの信託によるもの」という考えが全国に広まり、自由民権運動の理論的支柱をさらに強固にしていったのです。

自由民権運動の具体的な展開

演説会のブームと地方での広がり

自由民権運動が盛り上がるにつれ、全国各地で演説会や政治結社が次々と生まれました。

いわゆる「政社(せいしゃ)」と呼ばれる団体です。

自由党、立憲改進党などが有名ですが、各地域レベルでも多種多様な政社が結成され、国民に対して「私たちの声を政治に活かそう!」と熱いメッセージを投げかけました。

当時の演説会は、まるでお祭りのような盛り上がりを見せることも多かったといわれています。

まだインターネットどころかラジオやテレビもない時代ですから、実際に政治家や活動家の声を生で聞く機会はとても貴重でした。

人々は集まって耳を傾け、拍手喝采を送り、自由や人権に関する議論に熱中したのです。

政府の弾圧と対立

一方、政府はこうした民権運動を快く思いませんでした

言論や集会の自由を規制するために「集会条例」や「新聞紙条例」などを次々に発布し、演説会や記事の内容を取り締まりました。

逮捕者や新聞の廃刊なども相次ぎ、運動は大きな壁にぶつかることになります。

また、運動の過熱によって一部の急進派が暴力的な手段をとるケースも出てきたため、政府としてはますます警戒を強めることに。

こうした政府による弾圧と対立は、自由民権運動の勢いを一時的に衰えさせる要因にもなりました。

条約改正問題と自由民権運動

さらに当時、日本は不平等条約の改正に向けて外交交渉を続けていました

条約改正を成功させるためには、国内が安定していることを列強にアピールする必要があり、政府は民権運動を国家の不安要素と捉えていた節があります。

そのため、政府は「国会開設の勅諭」を出して将来的な議会の開設を約束する一方、運動を抑え込むような政策を取り続けました。

このような政府と民権運動側の駆け引きが、明治中期の政治を大きく動かしていきます。

国会開設と憲法制定への影響

国会開設の勅諭と10年後の約束

自由民権運動の大きな成果の一つが、政府による「国会開設の勅諭」です。

これは1881年(明治14年)、明治天皇の名で「1890年(明治23年)に国会を開設する」という約束を国民に示したもの。

民権派の世論が高まるなか、政府はこれ以上の混乱を避けるべく、国会を開設する方向にかじを切ったのです。

10年も先の話でしたが、それでも「国民の代表が参加する議会をつくる」というビジョンが政府の公式見解として示されたことは、運動側にとって大きな前進でした。

大日本帝国憲法の制定

そして、1890年の国会開設に先立つ形で、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されます。

伊藤博文を中心とする政府首脳が憲法草案の起草や各国の制度調査を行い、プロイセン憲法をモデルにしてつくられました。

ただし、大日本帝国憲法では「主権在君(天皇主権)」が基本原則とされており、言論や集会の自由は法律の範囲内においてのみ認められるなど、民権派が求めたような完全な民主主義とは言えませんでした。

とはいえ、国会(帝国議会)が設置され、民選の衆議院議員が政治に関わる道が開かれたことは、自由民権運動の大きな功績と言えます。

自由民権運動の盛衰とその後

大日本帝国憲法の制定、そして国会開設という一連の流れのなかで、自由民権運動は徐々に目的の一部を達成した形となりました。

運動が本格化していた1870年代〜1880年代後半までの間に、政府との衝突や内部の路線対立などで分裂・低調化していく面もあったのは事実です。

しかしながら、「国会開設までこぎつけた」という事実自体が、当時としては大変革と呼ぶにふさわしい成果でした!

国民の大多数が政治や社会に関心を抱くきっかけになった点も含め、その影響は決して小さくありません。

自由民権運動がもたらした社会への影響

言論・報道・結社の自由への意識向上

自由民権運動の過程で、言論の自由や報道の自由、結社の自由といった民主社会の基礎となる権利に対する意識が全国に広がりました。

新聞や雑誌が各地で刊行され、民権派の主張を代弁する記事が増えたことも、人々の政治意識を高める要因となりました。

たとえ政府の弾圧を受けても、意見広告や小冊子の配布などによって情報を共有しようとする熱意が衰えなかったことは、後の大正デモクラシーにつながる土壌を築いたと言えます。

地方自治の重要性と地方議会の発展

自由民権運動では、国会開設だけでなく地方議会の拡充も大きなテーマでした。

地方レベルでの政治参加が活発になることで、地域社会の問題を自分たちで解決しようという自治意識が高まっていきます。

実際、明治政府は「地方三新法」を制定するなどして地方制度の整備を進めましたが、その背景には民権運動側の強い要望がありました。

現在の市町村議会や都道府県議会の前身とも言える形が、この時期に整っていったのです。

国民的な政治意識の醸成

自由民権運動をきっかけとして、「政治は上から与えられるもの」という時代が終わりを告げつつありました。

新聞や雑誌、演説会などを通じて、誰もが政治談議を交わし、国家や社会のあり方を考える文化が育っていきます。

こうしたムーブメントが、後に大正時代に起こる「大正デモクラシー」や普通選挙運動といったさらに広範な民主化運動に繋がっていくのです。

自由民権運動が日本社会にもたらした参加型政治へのまなざしは、現代にいたるまで続いている重要な財産と言えるでしょう!

現代へ引き継がれる自由民権運動の意義

日本の民主主義の礎

現代の私たちは普通選挙(満18歳以上の国民全員が選挙権をもつ)を当然のように享受しています。

しかし、その権利が確立するまでには、多くの先人たちの血と汗と涙がありました。

自由民権運動こそが、その大きな始まりだったのです。

自由民権運動が芽吹いた明治時代、国民にはまだ政治を選択できる環境がほとんど整っていませんでした。

それでも「自分たちで政治を変えたい!」という熱意が運動の原動力となり、国会設立や憲法制定といった歴史的成果を勝ち取りました。

これは日本の民主主義の礎そのもの。

現代の選挙制度や言論の自由は、この運動の積み重ねから生まれたものなのです。

「権利を守る」意識の大切さ

もうひとつ重要なポイントは、国や政府に対して国民がどのように声を届け、権利を主張するかという姿勢です。

自由民権運動に参加した人々は、単に「政府に従う」だけでなく、「政府を動かし、より良くしていく主体は私たち自身だ!」という強い自覚をもっていました。

この精神は、現代の市民運動や世論形成の流れにもつながります。

SNSやインターネットを通じて多様な意見が飛び交う時代となった今、私たちも改めて「自分たちの暮らしや権利は自分たちで守るんだ」という意識をもち続けることが大切だと感じさせてくれますね。

学びの価値:歴史に見る「市民参加」の原点

最後に、自由民権運動を振り返ることは、自分たちの社会参加の原点に立ち返る機会を与えてくれます。

明治時代の先人たちは、命がけで言論活動を行い、政府に対して直接アピールを続けました。

困難は多かったものの、「国民の声をきちんと聞く政治をつくりたい!」という思いが形となり、国会開設や憲法制定につながっていったのです。

その過程で得られた教訓は、「声をあげれば社会は変わる可能性がある」ということ。

もちろん、すべてが順調にいくわけではありませんが、実際に日本の政治制度を変える原動力となった事例がここにあるのです。

まとめ

もし今後、歴史の授業や受験勉強、あるいは社会問題に関心をもったときに「どうして日本の政治制度はこうなったのだろう?」と疑問を持たれたら、ぜひ自由民権運動に再度注目してみてください。

現代につながる市民参加や言論の自由を守る原動力が、明治の時代から連綿と受け継がれてきたことを再認識できるはずですよ!

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