はじめに
北欧の国々の中でも、日本で人気の高いスウェーデン。
家具や雑貨ブランドでおなじみのIKEA、幻想的なオーロラ、豊かな福祉制度などがイメージされがちですが、実はスウェーデンには長い歴史があり、北欧を舞台に大きく勢力を広げた時代もあったんです!
そんなスウェーデンの歴史を、初心者向けにわかりやすく解説していきましょう。
スウェーデンの地理的背景と人々
スウェーデンは北欧のスカンディナヴィア半島の東側を占める国。
北はノルウェーやフィンランドと国境を接し、東はバルト海に面しています。
首都はストックホルムで、美しい海や湖、豊富な自然に恵まれた国です。
冬は長く日照時間も少ない一方、夏は白夜と呼ばれる夜が極端に短い時期もあります!
こうした自然条件が、人々のライフスタイルや文化にも強い影響を与えています。
スウェーデンに住む人々はゲルマン系が多いとされていますが、歴史を通じてバルト地域やフィンランドからの移民も入り混じっており、言語はスウェーデン語が公用語。
現在は英語教育が充実し、多くの人が英語を上手に話せることでも有名ですよね。
ヴァイキングの時代
北欧全体を揺るがした海の冒険者たち
スウェーデンの歴史を語るうえで欠かせないのが、ヴァイキングの存在です。
8世紀から11世紀頃の北欧では、ヴァイキングと呼ばれる海賊や商人、冒険家たちが活躍しました。
ノルウェーやデンマークのヴァイキングは主に西へ向かったとされていますが、スウェーデンのヴァイキングはバルト海沿岸やロシア方面へ進出し、商業拠点や交易路を確立しました。
ヴァイキングの活動は略奪ばかりが注目されがちですが、実際には交易や移住を通じてヨーロッパ全土の文化交流に大きく貢献しています!
当時の北欧文化や言語が、ヨーロッパ各地に影響を与えたともいわれています。
クリスチャン化と統合への道
ヴァイキング時代が終わりに近づくと、北欧の人々も徐々にキリスト教を受け入れるようになります。
キリスト教化は当初、ヨーロッパ大陸からの宣教師によって進められましたが、12世紀頃までにはスウェーデンでも定着しはじめ、政治や社会の重要な柱となりました。
この頃、各地で地域的な王国が成立しはじめ、やがて大きなスウェーデン王国が形成される下地となっていきます。
カルマル同盟と独立
カルマル同盟の成立
14世紀末に北欧の覇権をめぐる動きが活発化し、スカンディナヴィア諸国は互いに協力したり、争ったりを繰り返していました。
そんな中で注目すべき出来事が1397年に結ばれたカルマル同盟です!
これはデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの3王国が同じ君主をいただき、協力関係を築こうとした同盟でした。
しかし、カルマル同盟はデンマーク王が実質的に主導権を握る形になり、スウェーデン側に不満が蓄積。
16世紀前半にはスウェーデン独立運動が本格化し、1523年にはグスタフ・ヴァーサがスウェーデン王に即位することで、スウェーデンは事実上カルマル同盟からの離脱を果たしました。
グスタフ・ヴァーサの改革
グスタフ・ヴァーサはスウェーデンの近代国家としての基礎を築いた王といえます。
カトリック教会との関係を見直し、プロテスタント(ルター派)を導入して教会財産を没収。
王権を強化するとともに、経済・行政の改革を進めました!
これにより、スウェーデンは政治的にも宗教的にもデンマークから離れた独自路線を歩みはじめ、北欧の中でも独自の存在感を高めていきます。
バルト帝国とスウェーデンの大国時代
バルト海の覇権争い
16世紀から17世紀にかけて、スウェーデン王国はバルト海周辺の覇権をめぐってロシアやポーランド、デンマークなどと争いました。
特にグスタフ・アドルフ王(在位1611年–1632年)の時代には軍事改革が進み、スウェーデン軍はヨーロッパでも屈指の強さを誇ったと言われています。
バルト海沿岸を次々と手中に収め、東欧地域の大国と肩を並べるほどの影響力を持つようになったスウェーデン。
グスタフ・アドルフは三十年戦争にも参戦し、ヨーロッパの政治や宗教の争いに深く関わりました!
この時代をスウェーデンの大国時代あるいはバルト帝国と呼ぶこともあります。
三十年戦争と近代戦術
1618年から1648年にわたってヨーロッパの多くの国々を巻き込んだ三十年戦争は、もともと神聖ローマ帝国(現在のドイツ地域)内部の宗教対立が発端でした。
しかしヨーロッパ中の国々の利害が絡み合い、戦争は長期化・泥沼化していきます。
スウェーデンはプロテスタント陣営の中心的な役割を果たすため参戦し、国力を総動員して戦ったのです。
グスタフ・アドルフは火器と歩兵隊・騎兵隊を組み合わせた近代的な戦術を採用し、いくつかの大戦に勝利を収めました。
彼は戦場で戦死してしまうものの、その後もスウェーデン軍は優勢を維持し、最終的にヴェストファーレン条約(1648年)でバルト海沿岸地域における支配権を認められます。
これによってスウェーデンの大国時代は頂点を迎えました。
大国から立憲国家へ
大北方戦争と衰退のはじまり
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、スウェーデンはバルト海の覇権をめぐってロシアやデンマーク、ポーランドなどと再び衝突しました。
特に1700年から1721年まで続いた大北方戦争では、若きカール12世が果敢に戦いましたが、ロシアのピョートル大帝による近代化された軍隊の前に徐々に劣勢へと追い込まれます。
最終的にはスウェーデンは多くの領土を失い、大国としての地位は衰退してしまうのです。
立憲主義の芽生え
大北方戦争後、スウェーデン国内では戦争の疲弊から王権の独裁的な行使に対する反発が強まり、18世紀には自由の時代と呼ばれる立憲政治の実験期が到来しました。
議会(リクスダーゲン)を中心に貴族や市民が政治の実権を握ろうと動きはじめ、近代的な思想や経済政策が導入されるようになります。
しかし、その後王権が再び強化される動きもあり、一時期の自由な立憲政治はやや後退してしまうのですが、こうした経験がのちにスウェーデンが議会制民主主義を確立する下地にもなっていきました。
現代へ続く王国の歩み
19世紀:ナポレオン戦争とノルウェー連合
19世紀はヨーロッパ全体がナポレオン戦争の影響に大きく揺さぶられた時代。
スウェーデンも当初はフランスと敵対していましたが、やがてフランスの元軍人であったジャン=バティスト・ベルナドットを王位継承者(摂政)に迎え入れます。
彼はのちにカール14世ヨハンとしてスウェーデン王となり、ノルウェーとの同君連合を成立させました(1814年)。
これによってスウェーデンとノルウェーは1人の君主のもとで連合を組む形となりますが、1905年にはノルウェーが平和的に独立し、連合関係は解消されます。
中立国としての道
19世紀以降のスウェーデンは、比較的平和に内政や経済を整え、中立国としての道を歩むことになります。
特に二度の世界大戦においては、中立の立場を宣言し直接的な参戦を避けたことで、戦災による大きな被害を受けませんでした。
もちろん難民の受け入れやドイツとの複雑な協力関係など、課題や批判もありましたが、結果的に国内のインフラや産業を維持することができました。
福祉国家と現代のスウェーデン
福祉国家の確立
第二次世界大戦後、スウェーデンは福祉国家としてのモデルを世界に示すようになります。
高い税率を背景に医療や教育、年金などの社会保障制度を充実させ、一人ひとりが安心して暮らせる社会を目指したのです!
スウェーデン・モデルや中道左派の政策といった言葉が代表的に使われるように、経済成長と社会福祉の両立を掲げた取り組みが大きな注目を集めました。
もちろん、時代の変化とともに財政負担の増大や移民問題、少子化などの課題も見え隠れするようになっています。
しかし国際比較をすると、スウェーデンは未だに高い生活水準と所得格差の少ない社会を実現しており、その政治や文化、働き方は多くの国から注目の的になっています。
多様性とグローバル化
近年のスウェーデンは、移民政策や女性の社会進出にも積極的で、グローバル化の波にいち早く対応してきた国の一つと言えるでしょう。
英語教育が徹底され、企業も国際市場での競争力が高いといわれています。
また、IT産業や環境技術分野でも世界をリードする企業やスタートアップが多く、北欧のイノベーション拠点としての地位を確立しているのです。
音楽産業やファッション、デザインなどのクリエイティブ分野でも、若手の才能を積極的に支援する制度が整っており、多くのスウェーデン発アーティストやブランドが世界的な成功を収めています。
まとめ
こうしてみると、スウェーデンの歴史はヴァイキングの時代から大国としての一面、そして近代における立憲政治や中立政策を経て、現代の福祉国家に至るまで、本当に多彩な変遷を重ねてきたことがわかります!
少数でありながら欧州の要所であったり、大国としてバルト海に覇権を広げたり、その後は立憲主義や民主主義のモデルとなったりと、スウェーデンの姿は時代によって大きく変わってきました。
今後も持続可能な社会や多様性を重んじる世界の中で、スウェーデンがどのような歩みを見せてくれるのか、大いに期待したいところです。