世界の歴史

スリランカの歴史を簡単に解説!古代王朝から近代まで一気にわかる入門ガイド

はじめに!スリランカってどんな国?

スリランカはインドの南東に位置する島国です。

昔は「セイロン」という名前で呼ばれていたこともあり、お茶の産地として聞いたことがある方も多いでしょう。

スリランカは、その形が涙のしずくに似ていることから「インド洋の真珠」や「涙のしずく」のようにたとえられることもあります。

豊かな自然、仏教を中心とした文化、そして長い歴史を持つ国なのです。

本記事では、このスリランカの歴史について、古代から現代までの大きな流れを整理してお伝えします。

名前や出来事がたくさん出てきますが、どんな特徴があるのかをざっくりとつかむことを目標にしましょう!

古代のスリランカ!最初の王国の誕生

スリランカは、紀元前から人が住んでいたとされ、インド大陸やアジアの各地からの人々がやってきたと考えられています。

そんなスリランカで重要な役割を果たしたのが「シンハラ人(シンハリーズ)」と呼ばれる人々です。

彼らは現在のスリランカの多数派となっている民族で、言語もシンハラ語を話します。

タンブッパニ河岸への上陸と紀元前の王国

歴史の始まりとしてよく語られるのが、シンハラ人の先祖がインド大陸から海を渡り、タンブッパニ川付近に到着したという伝承です。

伝説によれば、紀元前6世紀ごろにはすでに王国が建国され、そこからスリランカの王朝史が始まったともいわれます。

こうした伝承の多くが、仏教の聖典や歴史書である『マハーワンサ』に記されています。

実際に学術的な裏付けが得られる時代はもう少し後になりますが、こうした伝承はスリランカ人のアイデンティティ形成にも大きな影響を与えているのです。

当時のスリランカでは、農耕が盛んに行われていました。

特にスリランカは水資源が豊富で、灌漑(かんがい)施設も充実し、古くから稲作中心の文化が築かれていたと考えられています。

農業の発展に伴い、人口も増え、さらに複数の小さな王国ができて統合や争いを繰り返しながら発展していきました。

仏教の伝来!アヌラーダプラとポロンナルワ

スリランカの歴史を語るうえで欠かせないのが「仏教」の存在です。

紀元前3世紀頃、インドのマウリヤ朝のアショーカ王から派遣された宣教師たちによって、仏教がスリランカへ伝えられました。

これにより、スリランカの文化は大きく仏教色を帯びるようになります。

アヌラーダプラ王国の繁栄

スリランカの初期王朝としてとくに有名なのが、アヌラーダプラを中心とした王国(紀元前4世紀頃~紀元10世紀頃)です。

アヌラーダプラは古都として名高く、壮大な仏塔(ダゴバ)や寺院が建立されました。

スリランカの北中部に位置するアヌラーダプラは、当時の政治・文化・宗教の中心地として長らく栄えました。

仏教寺院を中心に人々が集まり、教育や芸術活動も活発に行われていたそうです。

いまでもアヌラーダプラの遺跡地帯には、巨大な仏塔や仏教の聖木「スリー・マハー菩提樹」などが残っています。

これらは現在でも多くの観光客や巡礼者を惹きつけるスポットです!

ポロンナルワ王国への遷都

アヌラーダプラ王国が長い間栄えたのち、王朝は内部の権力闘争や外部からの侵攻などで衰退していきます。

代わって繁栄の中心地となったのが、ポロンナルワ(11世紀~13世紀前半)です。

ここでは、さらなる灌漑技術の発展や仏教建築の隆盛がみられ、当時としては非常に高度な都市計画が実行されたともいわれます。

遷都によって新たな文化・経済の中心になったポロンナルワは、壮麗な石造仏や宮殿など、今でも見応え十分の遺跡が残されています。

こうした歴史的建造物は、スリランカの長い歴史を物語る貴重な資料として高く評価され、世界遺産にも登録されています。

王朝の変遷とタミル人の影響

スリランカは古くからインド南部のタミル人との交流もありました。

特にタミル人の王国である「チョーラ朝」がスリランカへ侵入して支配する時代もあり、現在でもタミル人はスリランカの少数民族ながら大きな存在感を持っています。

文化や宗教も多様化し、ヒンドゥー教が広まった地域もありました。

また、スリランカ各地ではシンハラ人同士の王朝争いや地方の豪族同士の対立も繰り返されていました。

こうした複雑な権力構造の中で、政権の中心が移り変わり、各地に城塞都市や要塞が築かれたりして、スリランカの文化はさらに多彩になっていきました。

ヨーロッパ列強の侵入!ポルトガル・オランダ・イギリスの支配

時代が進み、大航海時代になるとスリランカにもヨーロッパ諸国が進出してきます。

特に香辛料や宝石といった貴重な交易品に目をつけて、ポルトガルやオランダ、イギリスが積極的に支配を試みるようになりました。

ポルトガルの登場

16世紀初頭にスリランカへやってきたポルトガルは、海岸部の貿易港を中心に勢力を広げました。

当時のスリランカの王朝は内陸部を中心に支配を続けていたため、海岸部を掌握したポルトガルとたびたび衝突が起こります。

ポルトガルはカトリック布教も行い、スリランカの宗教や文化にも少なからぬ影響を与えました。

オランダの影響

その後、ポルトガルの勢力を排除する形で17世紀に台頭してきたのがオランダです。

オランダは東インド会社を通じて貿易を独占しようとし、沿岸部に多数の要塞や拠点を築きました。

現在でもゴールなどの港町には、当時のオランダ建築が残っており、観光名所となっています。

イギリスによる植民地化

18世紀末にはイギリスがオランダを追いやり、スリランカは最終的にイギリスの植民地となりました。

当時「セイロン」と呼ばれたスリランカは、19世紀以降コーヒーや紅茶、ゴムといったプランテーション栽培が大きく発展。

イギリスは労働力の不足を補うため、インド南部からタミル人労働者を大量に移住させました。

これが後の民族対立へとつながる一因となったのです。

また、イギリス統治下で西洋式の教育制度やインフラ整備が進み、鉄道網や道路網が整備されていきました。

英語教育も広まり、現在のスリランカでも英語が通じる場面が多いのは、この時代の影響によるところが大きいです。

独立とその後!近現代のスリランカ

第二次世界大戦の終結後、アジアやアフリカの植民地が続々と独立を果たしていく中で、スリランカも1948年にイギリスから独立しました。

独立当初は「セイロン」と名乗っていましたが、1972年に国名を正式に「スリランカ」に改称

その後、国としての歩みを進めていきます。

民族問題と内戦

独立後のスリランカは、シンハラ人が政治の主導権を握っていました。

一方でタミル人が不満を募らせ、やがて「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」などの武装勢力が独立国家の樹立を求めるようになります。

こうして1983年に本格化した内戦は、長年にわたってスリランカ社会を大きく揺るがすこととなりました。

両陣営の対立は激しく、多くの犠牲者や難民を生み、国際社会からも注目と懸念を集めます。

内戦は2009年に政府軍がLTTEを制圧する形で終結を迎えましたが、その後も民族間のわだかまりや経済格差など、多くの課題が残っています。

経済発展と観光大国への道

内戦が終結すると、スリランカは観光業などを中心に経済発展を加速させる動きを見せました。

もともと豊かな自然や文化遺産を持つ国であるため、海外からの観光客が増加。仏教遺跡やビーチリゾート、紅茶のプランテーションなど、多彩な魅力を誇っています。

しかし、近年では政治の混乱や経済問題、社会インフラへの投資など、さまざまな困難も抱えています。

一方で、スリランカ特有の文化や人々のホスピタリティは、今なお多くの訪問者を魅了し続けているのです。

まとめ:スリランカの歴史を簡単に振り返ってみよう!

スリランカの歴史は数千年にわたる古代王国の発展と多様な外来勢力の影響のもとで形作られてきました。

そして近現代では、植民地支配からの独立と民族対立による内戦など、激動の時代を乗り越えています。

現在のスリランカは、仏教・ヒンドゥー教など多様な文化が混在し、紅茶や観光産業でも世界的に知られる国となりました。

この記事をきっかけに、スリランカに興味を持ってもらえたら嬉しいです!

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