世界の歴史

南アフリカの歴史をわかりやすく解説!アパルトヘイトからの脱却まで

南アフリカのはじまり:先住民族の歴史

南アフリカの土地には、もともとサン人(ブッシュマン)やコイ人(ホッテントット)と呼ばれる先住民族が暮らしていました。

総称して「コイサン」と呼ばれることもあります。

彼らは狩猟採集民や牧畜民として古くから独自の文化を育み、広大な草原や乾燥地帯で生活を送っていたのです。

サン人やコイ人の歴史は長く、岩絵などから数万年前からの人類の活動が確認されています。

こうした先住民族は、自然と共生する暮らしを大切にしていました!

しかし後の時代に外部からさまざまな人々がやって来るようになり、彼らの生活様式や居住地は大きく変わっていきます。

バントゥー系民族の移動と定住

紀元前後からアフリカ大陸全土に広がった「バントゥー系民族」の移住も、南アフリカの歴史を語るうえで欠かせません!

バントゥー系とは、共通の言語体系(バントゥー語群)を持つ民族の総称で、農耕や牧畜、鉄器の使用など、先住のサン人・コイ人とは異なる技術や文化をもたらしました。

やがてバントゥー系民族は、ズールー族やコサ族といった大きなグループを形成し、現在の南アフリカの主要民族へとつながっていきます。

これによって、南アフリカは多様な民族文化が入り混じる地域となり、複雑ながらも豊かな社会の土台が作られていったのです。

ヨーロッパ勢力の到来:ポルトガルからオランダへ

ヨーロッパからアフリカへの進出は、15世紀後半の大航海時代に本格化します。

南アフリカ沿岸には、まずポルトガルが到達し、インド洋へ向かう通商ルートの中継地として注目を集めました!

15世紀末には、ポルトガルの航海者バルトロメウ・ディアスが喜望峰(Cape of Good Hope)に到達し、交易の重要性が高まっていきます。

その後、17世紀半ば頃からはオランダ東インド会社(VOC)がケープ植民地を建設。

ヨーロッパとアジアを結ぶ貿易路の中継地点として発展し始めます。

やがて、この地域にはオランダ人入植者(ボーア人、あるいはアフリカーナーと呼ばれる人々)が増加し、土地の開拓や農業を営むようになります。

ここで先住民族との摩擦も生じ、南アフリカの社会構造に新たな変化が起こっていきました。

イギリスの支配とボーア人の移動

18世紀末から19世紀にかけては、ケープ植民地がイギリスの支配下に入ります。

ナポレオン戦争の影響で混乱が広がるヨーロッパでは、領土のやりとりが頻繁に行われました。

こうした情勢の中、イギリスがケープ植民地を獲得したことで、オランダ人入植者(ボーア人)たちは新たな地を求めて北東方向へ移動を始めました!

これが「グレート・トレック」と呼ばれる大移動です。

グレート・トレックを経て、ボーア人はトランスヴァール共和国やオレンジ自由国など、独自の国を樹立します。

一方、イギリスはケープ植民地やナタールなどの地域を直接統治し、南アフリカは多くの政治体制が入り乱れる複雑な状況に。

こうした勢力のせめぎ合いが後の「ボーア戦争」へとつながっていきます。

ボーア戦争と南アフリカ連邦の誕生

19世紀後半からはダイヤモンドや金が相次いで発見され、南アフリカは一気に資源開発の熱に包まれます!

特にトランスヴァール共和国で発見された金鉱の利益をめぐって、イギリスとボーア人の対立が激化し、1899年に第二次ボーア戦争が勃発。

ボーア人はゲリラ戦術で抗戦を続けましたが、結果的にはイギリス軍に敗北しました。

戦争に勝利したイギリスは、支配力を強化しつつ、1910年にケープ植民地、ナタール、トランスヴァール、オレンジ自由国を統合して「南アフリカ連邦」を成立させます。

ただし、この連邦は実質的に白人支配を前提とした体制であり、黒人や有色人種、先住民族は政治に大きく関与できず、不平等が続くことになります。

アパルトヘイト体制への道

南アフリカ連邦では、主に白人のアフリカーナー(ボーア人の子孫)とイギリス系白人が政治と経済の実権を握っていました。

こうした状況の中、白人以外の人々は土地や教育、就職などさまざまな面で厳しい制限を受け、反発や抵抗運動も起こります。

第二次世界大戦後の1948年には、アフリカーナーを基盤とする国民党が政権を握り、公式の人種隔離政策「アパルトヘイト」が始まりました!

アパルトヘイトは、白人を頂点に、他の人種を厳格に分離して支配する制度です。

住む地域や公共施設が人種ごとに分けられ、黒人や有色人種は不当に扱われました。

この厳しい政策は、南アフリカ社会を深く傷つけることになります。

抵抗運動と国際社会の批判

アパルトヘイト体制が強化されるなか、国内外から強い批判の声が上がりました。

国内では、アフリカ民族会議(ANC)などが中心となり、平和的なデモやストライキなどの抵抗運動を行いますが、政府は弾圧を強めます。

特に1960年の「シャープビル虐殺」事件では、非武装の黒人デモ隊に警察が発砲し、多数の犠牲者が出ました。

この事件をきっかけにANCの活動が非合法化され、地下活動や武装闘争へと転じるようになります。

一方、国際社会の圧力も高まっていきました!

国連や世界各国の政府、企業、市民団体などが南アフリカに対する経済制裁や文化的ボイコットを行い、孤立を深める状況に追い込まれていったのです。

ネルソン・マンデラと民主化への道

アパルトヘイト体制において、最も象徴的な存在となったのがネルソン・マンデラです!

マンデラはANCの指導者として人種平等を訴え、当初は平和的な運動を主導していました。

しかし政府の強硬措置に対抗するため、より直接的な抵抗活動(武装闘争)にも関与したことで逮捕され、終身刑を宣告されます。

マンデラはロベン島の刑務所に長く収監されましたが、その間も人種差別撤廃の象徴的存在として国内外から支持を集めます!

国際社会の圧力が強まる中、南アフリカ政府は体制の見直しを迫られ、1990年にはマンデラが釈放

やがてアパルトヘイト関連の法制度が次々と廃止され、民主化へ向けた大きな動きが加速していくのです。

新しい南アフリカの誕生:1994年の総選挙

1994年には、南アフリカ初となる全人種が参加できる民主的な総選挙が行われました!

結果はANCが圧勝し、ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国の大統領に就任。

歴史的な瞬間として、長きにわたるアパルトヘイトに終止符が打たれたのです。

マンデラ政権は「虹の国」をスローガンに、多民族・多文化が共存する社会を目指しました。

また、過去の人権侵害を検証する「真実和解委員会(TRC)」を設置し、アパルトヘイト時代の傷をどのように癒やしていくかという大きなテーマに取り組んだのです。

このように南アフリカは、民主化後も困難な課題を抱えつつも、新たな国家建設への道を歩み始めました。

現代の南アフリカ:課題と希望

民主化後の南アフリカは、アパルトヘイト時代から引き継いだ格差や貧困、失業率の高さなど、さまざまな社会問題に直面しています。

特に黒人層と白人層の経済格差は依然として大きく、教育や医療制度の格差も深刻な課題です。

しかし一方で、南アフリカはアフリカ大陸屈指の経済力を持ち、豊かな資源と観光資源を有する国でもあります!

サッカーのワールドカップ(2010年)や国際会議の開催など、世界にアピールする機会も増え、国際的にも注目度が高まっています。

多様な文化が交わりあう活気あふれる国として、これからのさらなる発展に期待が寄せられているのです。

まとめ

南アフリカの歴史は、先住民族の暮らしに始まり、ヨーロッパ諸国による植民地化やボーア戦争、アパルトヘイトといった困難な時代を経て、ようやく民主化を勝ち取った壮大なドラマです!

その過程では、人々の苦悩や葛藤、そして希望と和解への道が描かれてきました。

今もなお、多くの課題は残っていますが、世界で最も多様性に富んだ国の一つとして進化を続けています。

歴史を紐解くことで、南アフリカがいかに複雑で魅力的な国であるかを実感できることでしょう!

ぜひ、今後もさらに深く調べてみたり、現地を訪れて新たな発見をしてみたりしてください。

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