中越戦争の背景
ベトナム戦争後の東南アジア情勢
中越戦争を理解するには、まずベトナム戦争(1960年代〜1975年)後の東南アジアがどうなっていたのかを押さえる必要があります。
ベトナム戦争の終結により、南北に分断されていたベトナムは最終的に統一され、「ベトナム社会主義共和国」が成立しました。
アメリカが撤退し、ベトナム全土を掌握した北ベトナム(旧共産党政権)は地域の安定を図る一方で、自国の生存と発展を確保しようと積極的な外交政策を展開します。
しかし当時、東南アジア地域は冷戦下の大国間競争の影響を強く受けていました。
ベトナム戦争そのものも、アメリカとソ連・中国といった大国が東南アジアで競合した結果ともいえます。
戦後ベトナムがどの陣営につくのかは、周辺諸国にとって死活問題でした。
中ソ対立とベトナムのソ連寄り外交
もう一つ重要なのが、中国とソ連が同じ共産主義国でありながら対立していた事実です。
1960年代に「中ソ対立」が激化し、共産主義国家であっても意見の相違から険悪な関係に陥っていました。
ベトナムは当初、中国から多大な支援を受けてアメリカとの戦争を戦い抜きましたが、戦争終結後はソ連の方にも接近していくようになります。
この背景には、ベトナム国内の指導部の思惑がありました。
大規模な戦争直後であったベトナムは、経済支援や軍事的な保障をより強力に受けられるパートナーが必要でした。
ソ連は当時、軍事力や経済力で中国よりも上回っている部分もあり、ベトナムの国家再建を助ける存在として期待されたのです。
他方、中国にとっては「近隣のベトナムがソ連と手を組む」という事態は、国境安全保障や地域における影響力の観点から大きな脅威と受け止められました。
冷戦下での大国同士の競合が、中越関係を大きく左右する構図だったのです。
カンボジア問題とポル・ポト政権
中越戦争が起きた直接的なきっかけとして注目すべきなのが、カンボジア(当時のカンプチア)で政権を握っていたポル・ポト政権との関係です。
ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)は極端な共産主義政策を実施し、大規模な虐殺(いわゆる「キリング・フィールド」)を引き起こしていました。
ベトナムは人道的危機やカンボジア国境地帯での衝突を理由に、1978年末からカンボジアへの軍事介入を開始します。
このポル・ポト政権は実は中国の強い支持を受けていました。
中国にとっては、カンボジアのポル・ポト政権がソ連寄りのベトナムを牽制する役割を果たす重要な存在だったのです。
そのため、ベトナムがカンボジアへ軍事介入し、ポル・ポト政権を崩壊させたことは、中国にとって看過できない動きでした。
こうした複雑な東南アジア情勢、中ソ対立、そしてカンボジア問題の三つが絡み合って、中越戦争という軍事衝突が生まれる下地となったのです!
中越戦争の経過
中国の侵攻目的
1979年2月、中国はベトナム北部国境地帯へ軍事侵攻を開始します。
中国側の主張は、ベトナムがカンボジアへ不当に軍事干渉したこと、そしてベトナム国内で華僑(中国系住民)の権利が侵害されているというものでした。
しかし実際には「ベトナムのソ連寄り外交とカンボジア侵攻への報復」が主たる目的だったと考えられています。
当時、中国は国内で文革(文化大革命)後の混乱から立ち直りつつあり、鄧小平の経済改革路線が始まりを見せていた時期でした。
とはいえ、軍事的にはまだ大規模な近代化が進んでおらず、ベトナム戦争で磨かれたベトナムの陸軍を過小評価していたとも言われます。
当時の軍事バランス
ベトナム側は長い戦争の経験(フランスとのインドシナ戦争、アメリカとのベトナム戦争)から、ゲリラ戦術や地上戦に非常に長けていました。
一方の中国は数的には圧倒的な動員力を持っていましたが、装備や軍事訓練の面で近代化が遅れていた部分も多く、また地形を活かした迎撃戦を得意とするベトナム軍の戦法に手を焼くことになります。
さらにベトナム側はソ連からの援助をある程度見込める立場にあり、中国が侵攻をエスカレートさせれば、ソ連との直接対立につながる可能性もありました。
実際に、ソ連は中国に対し威圧的な姿勢を見せ、戦争をさらに拡大させないよう牽制したとされます。
戦闘の主要な流れ
中国は、2月17日にベトナム北部(ランソン省など)へ複数のルートから侵攻を開始します。
開始直後は中国軍が数的優位を活かしてある程度前進しましたが、ベトナム軍の抵抗は激しく、想定以上の損害を被りました。
ベトナム側の防衛線は頑強で、山岳地帯やジャングル地帯での戦いは、中国軍にとって困難を極めました。
結局、中国軍はベトナム北部の主要都市であるランソンを含む国境付近のいくつかの地域を占領しましたが、ベトナムの首都ハノイまでは大きく距離があり、占領計画はほぼ不可能な状況となりました。
一方のベトナム軍も長引く戦闘で疲弊し、一時的にカンボジアへの軍事力の集中から手が回らなくなる側面がありました。
最終的に中国は、国境付近を短期間占領したのち「懲罰は達成した」と宣言し、3月上旬に撤退を開始します。
この短い戦争は、いわゆる「懲罰戦争」とも呼ばれ、中国にしてみれば「ベトナムに軍事力で圧力をかける」という政治的意図があったのです。
「中越戦争」という概念の詳細
呼称の由来
実際に戦闘が行われた期間は1979年2月から3月までと短かったのですが、日本では一般的に「中越戦争」と呼ばれます。
英語では「Sino-Vietnamese War(サイノ・ヴィエトナミーズ・ウォー)」とも言います。
ベトナム国内では「中国の侵攻」と表現されることもあり、中国国内では公式な場で大々的に語られない側面があるため、呼称や認識は国ごとに微妙に異なります。
国境紛争の一環という見方
中越国境はもともとフランス植民地時代から曖昧な部分を含んでおり、歴史的にも中国とベトナムの間で小競り合いが絶えませんでした。
特に両国が共産主義政権となった後でも、国境の確定問題や華僑・ベトナム華人の扱いなど、両国間には常に火種が存在していたのです。
そのため一部の専門家は、1979年の中越戦争を「大規模な国境紛争の一つ」と捉えています。
実際、その後1980年代を通じて断続的な衝突が続き、完全な国境画定がなされたのは1990年代末から2000年代にかけてです。
このように、「中越戦争」は単発の衝突というよりは「長きにわたる中越の国境問題の最高潮」であったと言っても過言ではありません。
軍事衝突の規模と国際的評価
先述のように戦闘期間は短かったものの、双方で数万人規模の死傷者が出たとされ、決して軽視できる規模ではありません。
また冷戦下の東アジア・東南アジアにおける主要な軍事衝突という点で、国際社会から大きな注目を集めました。
アメリカや西側諸国は、ベトナム戦争と深く関わっていたため、ベトナムがさらなる軍事的負担を抱える状況に懸念を示しました。
一方のソ連は、同盟国ベトナムを表面上支援しつつも、中国との直接対決は避けたいという思惑もあり、微妙なバランスの中で外交を進めたと言われています。
戦争の終了とその余波
停戦と帰結
1979年3月になると、中国は「目的を達成した」としてベトナム北部から撤兵を開始します。
中国側は自国の侵攻を「懲罰目的」と称し、ベトナム側には「自分たちに逆らうとこうなる」というメッセージを与えたかったと考えられます。
対するベトナムは、自国防衛に成功したとアピールしつつ、カンボジアでの軍事行動を継続しました。
一方で、中越両国ともに大きな人的・物的損害を被りました。
中国は国際社会からも批判を浴び、ベトナムは長期化するカンボジア占領と合わせて経済的に疲弊が進みます。
いずれにせよ、双方にとって決定的な「勝利」とは言いづらく、国境地帯での小規模衝突は1980年代も散発的に続きました。
地域情勢への影響
中国とベトナムの対立は、ASEAN諸国やソ連、アメリカなどにも影響をもたらしました。
特にカンボジア問題をめぐるベトナムと中国の対立は東南アジアを不安定化し、ASEAN諸国は対ベトナム包囲網を形成するなど、地域的な外交の再編が進んでいきます。
また、中国が軍事的に動いたという事実は、周辺国にも警戒感を与えました。
これは後々に中国が改革開放路線を進める際、国外との関係修復をどう進めていくかという課題にもつながっています。
国際政治における影響
国際社会の目から見ると、この中越戦争は「社会主義国同士の衝突」という非常に興味深い事例でした。
冷戦時代、共産主義陣営は表面的には一枚岩に見られがちでしたが、実際には中国とソ連の対立があり、さらにその下でベトナム、カンボジア、ラオスといった国々が複雑な立ち位置をとっていました。
この戦争によって、ソ連と中国の関係は一層険悪化し、ソ連はベトナムへの支援を通じて東南アジアに対する影響力拡大を目指すことになります。
一方、中国は「ベトナム=ソ連の代理人」というレッテルを貼り、近隣諸国への警告を強めることとなりました。
結果的に、冷戦下の東アジア・東南アジアにおける勢力図がさらに複雑化したと言えるでしょう。
戦争後の中越関係
対立から協力へ?
1980年代を通して、中越国境ではたびたび衝突が発生しましたが、大規模な戦争には至りませんでした。
ベトナムはソ連との協調を続けつつも、1980年代後半になるとソ連自体がペレストロイカなどの改革で国際関係を変化させ始め、中国もまた改革開放路線を本格化させていきます。
そのため、両国間の対立をエスカレートさせるメリットは徐々になくなっていきました。
1989年、ベトナムはカンボジアからの撤兵を開始し、カンボジア問題は徐々に解決へ向かいます。
これを機に、東南アジアの地域秩序再編が加速し、1991年には中越国交正常化が再び実現しました。ここから、両国の関係は徐々に修復の道をたどります。
国境問題の解決
1990年代以降、中越国境の線引きに関する交渉が進み、2000年代には最終的な国境協定が結ばれました。
これにより、19世紀末のフランス植民地時代から続いてきた曖昧な国境問題が、法的に整理される形となりました。
とはいえ、南シナ海(ベトナム語では「東海」)における領有権問題は、現在でも完全に解決していません。
パラセル諸島(西沙諸島)やスプラトリー諸島(南沙諸島)をめぐっては、中国とベトナムの間で依然として対立が続き、衝突を繰り返す恐れは拭えません。
経済関係の変化
中越戦争以降、両国は一時的に対立関係にありましたが、1990年代から2000年代にかけては経済的な協力関係も深まっていきます。
中国の急速な経済成長は周辺国にも恩恵を与え、ベトナムも改革・開放経済政策「ドイモイ」の成功を背景に、高い経済成長率を記録しました。
お互いに市場経済的要素を取り入れた社会主義体制下で、ビジネスや観光が活発化し、貿易額も年々拡大していきます。
こうした経済的な相互依存の深化が、両国の政治的安定を支える一面もありますが、南シナ海問題や歴史認識の相違など、引き続き慎重な外交が求められます。
まとめ
現在、中国とベトナムは一定の経済的協力関係を築き、貿易や投資で結びつきを強化している一方、南シナ海や歴史問題では依然として緊張がくすぶっています。
お互いが強い経済成長を遂げている今だからこそ、軍事的な衝突を避けることは両国の利益にも適っているはずです。
「中越戦争」という歴史的事件を踏まえつつ、両国が持続的な友好関係を築き、地域全体の安定と繁栄に貢献していくことが望まれます。
歴史に学び、再び悲惨な紛争が起こらないよう、国際社会が協力して平和的な解決を模索していくことが大切です!