はじめに
みなさんは普段、サツマイモをどのように召し上がっていますか?
ホクホクの焼き芋や甘みたっぷりのスイートポテトなど、日本ではさまざまなサツマイモ料理が愛されています。
そんなサツマイモですが、「なぜサツマイモは“サツマ”イモと呼ばれるの?薩摩とは関係あるの?」「いつから日本にあったの?」と、ふと疑問に思ったことはありませんか?
実はサツマイモには、私たちが思う以上に深い歴史があります!
この記事では、サツマイモが世界のどこからやって来て、日本でどんな道をたどり、そしてなぜ広く親しまれるようになったのかを探っていきたいと思います。
ぜひ最後まで読んで、サツマイモの歴史を楽しんでいただければ幸いです。
サツマイモの原産地と世界での広がり
サツマイモの起源は中南米!
まず、サツマイモの原産地はどこかご存じですか?
サツマイモの起源は、実は中南米とされています。
メキシコやペルーなど、温暖な地域で古くから栽培されてきた歴史があります。
日本にサツマイモが伝わるずっと以前から、インカ帝国の時代にも重要な作物として扱われていたとも言われています。
南米大陸などでは、とうもろこしやジャガイモと同じように、サツマイモは人々の貴重なエネルギー源でした。
スペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国が大航海時代にアメリカ大陸へ進出したことで、サツマイモも世界へ広まるきっかけが生まれます。
海上交易が活発になると同時に、サツマイモの種芋がアジアやアフリカの各地に伝えられ、さまざまな地域で栽培が開始されました。
東南アジアを経由して日本へ
サツマイモが日本に伝来する以前に、まずはフィリピンやインドネシア、台湾など東南アジア地域で栽培されていたようです。
特にスペインやポルトガルがアジアの貿易を積極的に行っていた16世紀頃には、サツマイモが船に積まれ、各地を回っていたと考えられています。
当時はまだ、「この作物がこんなに広がるのか!」と想像できなかったかもしれませんが、サツマイモは痩せた土地でも比較的育ちやすく、かつ栄養価が高いことから各地で重宝されていきました。
こうして世界各地に根づいていったのが、サツマイモがグローバルな食材として定着していった背景なのです。
日本への伝来と「サツマイモ」という名前の由来
沖縄(琉球)への伝来
日本におけるサツマイモの歴史を語るうえで、最初に注目したいのが沖縄(当時は琉球王国)です。
サツマイモは16世紀後半から17世紀初頭頃、東南アジアや中国を経由して琉球に伝わったとされています。
琉球は海上交易の要衝でもあったため、さまざまな外来作物や文化が入りやすい土地柄でした。
当初は、琉球の一部の地域でしか栽培が行われていなかったサツマイモですが、収穫量が多くて飢饉の備えになることから次第に重宝され、琉球各地へと広がっていきます。
のちに、薩摩藩との交流の中で「これはすごく役に立つ作物だ!」と注目され、薩摩の地(現在の鹿児島県周辺)へと持ち込まれることになるのです。
薩摩藩での普及
実際に「サツマイモ」という名称がついたのは、琉球から薩摩藩へと伝わり、そこで盛んに栽培が行われたことに由来します。
薩摩地方(現在の鹿児島県)で盛んに作られたので「薩摩芋(さつまいも)」と呼ばれるようになったのですね。
薩摩藩は、江戸時代の中でも比較的広い領地と政治力を持っており、琉球との結び付きも強かったため、サツマイモを効率的に活用しようと積極的に動きました。
これがきっかけで、日本本土への普及が一気に進んだわけです。
さらに当時、日本各地ではしばしば飢饉が起こっていたため、痩せた土地でも育つサツマイモは人々の命をつなぐ重要な作物として期待されていました。
江戸時代におけるサツマイモの普及と飢饉対策
江戸幕府がサツマイモを推奨
サツマイモが日本国内で本格的に注目を浴びるようになった大きなきっかけは、江戸時代の飢饉対策でした。
江戸幕府の儒学者であった青木昆陽(あおきこんよう)は、何度も飢饉に見舞われる農民の暮らしを憂い、「痩せた土地でもよく育つ作物はないか?」と研究を重ねました。
その結果、薩摩藩などで栽培されていたサツマイモに目をつけたのです。
青木昆陽は幕府に「このサツマイモこそ飢饉に強い作物なので、全国的に普及させるべきです!」と進言。
幕府もこれを採択し、関東近郊での試験的な栽培が始まりました。
こうした行政の後押しもあり、サツマイモの栽培は日本各地に急速に広まっていきます。
特に人口の多い都市部を支える作物として、サツマイモの需要がぐんと高まりました。
飢饉の救世主としてのサツマイモ
日本の歴史を振り返ると、大きな飢饉が度々起こっています。
冷夏や長雨、台風などの天候不順によりコメなどの穀物が不作になると、多くの農民が食べる物を失い、生命の危機に瀕しました。
そんなとき、サツマイモは比較的手間がかからず育ちやすい上に、土壌の質にもそれほど左右されないため、貴重な食料源となりました。
さらにサツマイモは栄養価も高く、でんぷんやビタミンCを多く含む点が大きな強みです。
当時の日本では、コメ以外に主食として認められる作物は限られていましたが、サツマイモが「いざというときの頼れる存在!」と認知されるにつれて、農村だけでなく都会でもその価値が広く理解されるようになったのです。
明治以降のサツマイモ事情と戦後の普及
明治時代~大正時代:さらなる品種改良
江戸時代に普及したサツマイモですが、明治以降になると欧米文化の影響や農業技術の進歩などにより、品種改良が盛んに行われるようになります。
明治新政府の殖産興業政策や、農学の研究が進むにつれて、「より甘みの強いサツマイモ」「より多く収穫できるサツマイモ」など、さまざまな品種が生み出されていきました。
また、全国各地で地域の気候や土壌に合わせた栽培技術の研究が進められ、「焼き芋にすると絶品!」という品種から、「蒸して食べると美味しい」というものまで、多彩なサツマイモが作られるようになります。
大正時代になると、砂糖などの甘味料も比較的手に入りやすくなったため、サツマイモを使った菓子やおやつなども少しずつ増えていきました。
第二次世界大戦時の食糧難とサツマイモ
第二次世界大戦中、国内の農業生産が追いつかず、多くの国民が深刻な食糧難に陥りました。
そんな時期にも、サツマイモは主食代わりとして大いに役立ちました。
とくに都会では、空き地や畑を活用してサツマイモを育てる「イモ畑」が増え、戦中・戦後の食糧を支える主力作物となったのです。
戦後の復興期には、まだまだ米の生産量が不足していたため、サツマイモを混ぜて炊いた「イモごはん」などが各家庭で作られました。
「食べ盛りの子供たちにしっかりエネルギーを届けたい!」と願う家庭には、栄養価の高いサツマイモは非常にありがたい存在でした。
サツマイモが紡ぐ地域活性とこれから
観光資源としてのサツマイモ
サツマイモは、地域活性化の切り札としても利用されています。
鹿児島県や茨城県など、サツマイモの生産量が多い地域では、サツマイモ関連の特産品や料理を観光客向けにPRしたり、収穫体験などのアクティビティを展開するケースが増えています。
たとえば、畑での収穫体験や「芋掘りツアー」は子供連れの家族に大人気!自然と触れ合いながら、楽しくサツマイモの歴史や魅力を知ることができます。
持続可能な農業への期待
サツマイモは土壌をあまり選ばず育てやすいという特徴があり、農薬や化学肥料を抑えた有機栽培との相性も悪くありません。
これからの時代は、環境負荷を低減する持続可能な農業が求められますが、サツマイモのように比較的丈夫で、かつ需要が安定している作物は、まさにそうした農業の推進役として期待できます。
さらに、焼酎や菓子などへ加工して付加価値を高めるビジネスモデルも確立されているため、サツマイモを通じた地域経済の循環が実現しやすいといえます。
このように、サツマイモの歴史と未来を考えると、日本だけでなく世界各地でも、まだまだ多くの可能性を秘めた食材なのだと思わされますね!
まとめ
サツマイモの歴史を振り返ると、中南米を原産地とし、16世紀から17世紀にかけてアジアへ渡り、沖縄(琉球)を経て薩摩藩(鹿児島)で盛んに栽培されることで「サツマイモ」と呼ばれるようになりました。
江戸時代には青木昆陽の進言により飢饉対策の救世主となり、明治・大正・昭和を通じて品種改良や食糧難の解決策として重宝され、現代では多彩な品種や加工品が登場しています。
栄養価が高く、飢饉や戦時中の食糧難を支えてきたサツマイモは、今ではスイーツやおかず、焼酎などの多方面で活躍し、私たちの日常に欠かせない食材になりました。
こうしてみると、サツマイモがたどってきた道のりはまさにドラマティックです!
これからもサツマイモは、食糧としての安定供給や地域活性、さらには持続可能な農業の観点からも注目を集め続けるでしょう。
ぜひ、そんなサツマイモの背景を思い出しながら、次回の食卓でも味わってみてくださいね!