三国干渉って?(ざっくり)
まず「三国干渉」という言葉を聞いたとき、多くの人は「三つの国が干渉してきた事件」というイメージを持つかもしれません。
ざっくり言えば、1895(明治28)年に日本が清との間で結んだ下関条約(しものせきじょうやく)の内容に対して、当時のロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に圧力をかけてきた外交事件です。
なかでも特にロシアが大きく関わっており、その結果、日本は清から獲得したはずの遼東半島(りょうとうはんとう)を泣く泣く返還することになりました。
なぜ日本は獲得地を返還せざるを得なかったのか?
三国はどんな狙いで干渉してきたのか?
その後の日本や世界情勢にどんな影響があったのか?
このような疑問の答えを、これから順序立てて説明していきます!
三国干渉はなぜ起こったのか?
三国干渉がなぜ起こったのかを理解するためには、当時の国際情勢を学ぶ必要があります。
キーワードとなるのはロシアの南下政策、そして列強諸国のアジア進出です。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米列強は世界各地で植民地を広げ、勢力圏を拡大しようと競い合っていました。
特にイギリス・フランス・ドイツ・ロシアといったヨーロッパの強国は、中国をはじめとするアジア地域に強い経済的、軍事的な関心を抱いていたのです。
ロシアの南下政策とは?
ロシアは元々、極寒の地が広がる国土を抱え、船が一年を通して凍らずに航行できる「不凍港(ふとうこう)」を求めて南下を続けていました。
とりわけ朝鮮半島や満州(中国東北部)を含む地域は、ロシアが太平洋方面に出るための戦略的拠点として非常に魅力的だったのです。
ドイツとフランスの思惑
ドイツはこの時期、皇帝ヴィルヘルム2世のもとで海外進出に積極的でした。
一方のフランスは、ロシアとの同盟関係(露仏同盟)を背景に、ヨーロッパでのパワーバランスやアジア市場への影響力を拡大したいと考えていました。
加えて、いずれの国も日本が急速に近代化を進め、清との戦いに勝利したことを脅威あるいは注目すべき出来事と捉えていました。
このように、「日本がさらに勢力を拡大することを防ぎたい」「アジアにおける自国の権益を確保したい」というのが、三国干渉の根本的な理由だったのです。
日清戦争と下関条約の締結
三国干渉の背景には、日清戦争(にっしんせんそう)の結果が深く関わっています。
日清戦争は1894(明治27)年に始まり、翌1895(明治28)年に日本の勝利という形で終結しました。
勝利した日本は、清との間に「下関条約」を結び、大きくその国力と国際的地位を高めたのです。
下関条約の主な内容
- 朝鮮の独立承認
清は朝鮮を属国扱いしてきましたが、この条約によって朝鮮が「自主独立の国」であることを認めました。 - 領土割譲
清は日本に対し、遼東半島・台湾・澎湖諸島(ほうこしょとう)を割譲することを取り決めました。なかでも遼東半島(旅順・大連を含む地域)は、ロシアをはじめとする列強の視線が注がれる地域でした。 - 賠償金の支払い
日本は清から巨額の賠償金を受け取ることになりました。この資金は日本の産業発展や軍備拡張に大きく寄与することになります。
これらは日本側にとって非常に有利な内容でしたが、とりわけ欧米列強の注目を浴びたのが遼東半島の割譲でした。ここが三国干渉の発端とも言えます。
三国干渉の経過
下関条約が締結された同年、1895年4月下旬から5月にかけて、ロシア・ドイツ・フランスの三国は連携して日本政府に対し「遼東半島を清へ返還するよう」に強硬な勧告を行いました。
これが三国干渉です。
干渉に踏み切った三国の利害関係
ロシア
先述のとおり、不凍港を求める南下政策の一環として、遼東半島や朝鮮半島方面への影響力拡大を狙っていました。
旅順は非常に軍事的価値が高く、ロシアが主導権を握りたい重要拠点でした。
ドイツ
同じく東アジアにおける勢力拡大を望んでいました。
当時のドイツは新たな植民地や経済圏を求め、積極的な海外政策を進めていたのです。
フランス
ロシアとの友好関係(露仏同盟)を重視しており、ロシアと足並みを揃えることで自身の影響力も確保しようと考えていました。
また、アジア市場における自国の利権を確固たるものにしたい思惑もあったと考えられています。
このような背景を持つ三国が、日本に対して「もし遼東半島を返還しなければ、軍事的に対応する用意もある」という強いメッセージを突きつけたのです。
日本の決断
当時の日本は、日清戦争に勝ったとはいえ、ロシアを筆頭とするヨーロッパの列強三国と同時に戦える国力はありませんでした。
国際的にもまだ地位が不安定であったことから、やむなく遼東半島の返還を受け入れます。
これが日本にとっては大きな屈辱でしたが、もし対立を深めて戦争に突入すれば、勝ち目は薄いと判断されたのです。
返還と引き換えに三国から返還料として3,000万両(当時の貨幣価値)という金額を受け取りましたが、巨額の賠償金を得る一方で「せっかく手に入れた地を返さねばならない」という現実は、国民にも政治家にも大きな衝撃を与えました。
三国干渉後の日本社会
屈辱感と危機意識の高まり
日本国内では、三国干渉による「遼東半島返還」に対して、大きな屈辱感が広がりました。
新聞や雑誌は当初、日清戦争の勝利を盛大に報道し「日本の近代化はすばらしい!」と国民の士気を高めていました。
しかし、そこに突如としてロシアを中心とする列強の圧力がかかったわけです。
結果として、「また欧米列強の言いなりになるのか」「せっかく勝ち取った領土を取り上げられるなんて、悔しすぎる!」という感情が爆発しました。これを機に日本国内では「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉が合言葉のように流行します。
これは苦い思いを糧にして、いつか雪辱を果たそうという覚悟を示す言葉です。
後の日本の外交・軍事政策にも大きな影響を及ぼし、軍備拡張と国力増強に拍車をかける要因となりました。
軍拡路線と条約改正
三国干渉をきっかけに、日本はさらなる軍備拡張を進めます。
また、欧米列強によって不平等条約を押し付けられていた当時の日本は、条約改正交渉にも本腰を入れるようになりました。
「欧米列強と対等に渡り合うには、軍事力だけでなく、条約上の地位向上も欠かせない!」という思いが強まったのです。
やがて日本は、日英同盟(1902年)や日露戦争(1904~1905年)などを経て、列強に負けない国際的地位を築いていきます。
しかし、その過程で軍事偏重の考え方が強まっていく結果にもつながり、後の大正・昭和期にかけて軍部の政治的影響力が増していく要因の一つとなりました。
その後の世界情勢と三国干渉の影響
ロシアによる遼東半島の租借
三国干渉が成功してすぐ後、ロシアは清と交渉し、遼東半島の旅順・大連を実質的に租借する権利を獲得しました。
もともと日本が手に入れようとした地域を、今度はロシアが手中に収めたのです。
日本から見れば「三国干渉はロシアに美味しいところを持っていかれた」という構図になってしまいました。
さらに、ロシアは満州方面へも勢力を伸ばしていきます。
こうした流れは、のちに日本がロシアと対立する大きな要因となり、ついには日露戦争へと発展します。
日清戦争後から日露戦争へと繋がる一連の流れの中で、三国干渉は重要な転換点になりました。
国際社会における日本の認知
三国干渉は、日本の外交史において大きな試練でしたが、その後の日本にとっては「欧米列強の圧力にどう対応すればいいのか」を学ぶ貴重な経験でもありました。
欧米列強同士が利害関係で一致すると、たとえ日本が正当な権利を得たとしても強制的に介入される可能性がある――この教訓が、後の外交政策に活かされていきます。
一方で、欧米諸国から見れば、日本が急速に近代化して清に勝利したことに驚きを感じつつも、「アジアの新興勢力」として警戒するきっかけになりました。
日本はそれまで「攘夷(じょうい)」や「鎖国」から急速に脱却し、世界の舞台に姿を現したばかりでしたが、日清戦争勝利で「軍事・経済能力が侮れない国」という認識が高まったのです。
まとめ
三国干渉は、日本の近代史において「国力の不足を痛感し、それを克服すべく国造りを進めるきっかけ」となった重大な出来事でした。
同時に、ロシアなど列強の思惑を理解しないまま「一方的に勝利を喜んではいられない」という現実を日本に突きつけ、結果として軍備拡張への流れを加速させたのです。
これは現在においても、「一度手に入れた成果が国際社会のパワーバランスによって覆されることがある」という重要な教訓を示していると言えるでしょう。
国際政治は単純な正義や善悪だけでは動かず、各国の利害や思惑が複雑に絡み合う世界です。当時の日本がそれを痛感したのが、まさに三国干渉の局面だったのです!