三国同盟とはざっくり何か
三国同盟は、1882年にドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリアの3国のあいだで結ばれた軍事同盟を指します。
当時のヨーロッパでは、国家同士が軍事的・政治的に対立し合う中で「どこの国と手を組むか」がとても大切でした。
国力のバランスが崩れると、自国が孤立したり、攻撃されたりするリスクが高まってしまうからです。
とくにドイツは、1871年に統一を果たしたばかりの新興の大国でした。
いわば「これからヨーロッパの主役に躍り出よう!」という勢いを持っていた時期でもあります。
一方で、周囲の列強国(イギリスやフランス、ロシアなど)も、植民地獲得競争や領土問題で火花を散らしていました。
そんな中で誕生したのが三国同盟というわけです。
一般的に、この三国同盟は「三国協商(さんごくきょうしょう)」と対になる形で世界史の教科書に登場します。
三国協商はフランス・ロシア・イギリスが結んだ協力関係のことです。
ヨーロッパはこのように大きく二つの陣営に分かれ、やがて第一次世界大戦へと突入していきます。
三国同盟の歴史的背景
ドイツ帝国の誕生とビスマルク外交
三国同盟の成立には、ドイツ帝国の首相オットー・フォン・ビスマルクの存在が大きく関わっています。
ビスマルクは「鉄血宰相」とも呼ばれるほど強力なリーダーシップを発揮し、1871年にドイツ帝国を成立させました。
ビスマルクの目標は、「新生ドイツ帝国の安全保障を確立すること」と「フランスからの報復を避けること」でした。
というのも、ドイツ統一の際に普仏戦争(1870~1871年)でフランスに勝利し、フランスの国力を低下させる代わりにアルザス・ロレーヌ地方を奪ったからです。
この戦勝によって、フランスの対独感情は非常に悪化していました。
いつ再戦されてもおかしくない状況です。
そこでビスマルクは、フランスを孤立させるために「ドイツを中心としたヨーロッパの安全保障ネットワーク」を築こうと考えました。
この外交戦略は「ビスマルク体制」と呼ばれます。
まずロシア帝国とドイツが接近し、さらにオーストリア=ハンガリー帝国とも友好関係を結び、三帝同盟という形をとります。
三帝同盟はドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアの皇帝が互いに協調し合うものでしたが、バルカン半島での利権問題などから少しずつ綻びが生じはじめました。
オーストリア=ハンガリー帝国との関係強化
ドイツとオーストリア=ハンガリーは、民族的にも地理的にも近い関係にありました。
プロイセン(ドイツの中心的地域)とオーストリアは長らくライバル関係でもありましたが、ドイツ統一後は利害を一致させる必要性が高まっていきます。
とくにロシアの南下政策や、バルカン半島への影響力拡大を警戒していました。
バルカン半島は多様な民族が居住しており、ヨーロッパ諸国が「バルカン半島の秩序をどう管理するか」でしばしば争いを起こしていた地域です。
ロシアはスラヴ民族とのつながりを強調し、南下を進めたい思惑があり、オーストリア=ハンガリーはそれを非常に嫌っていました。
ドイツとしてもロシアがヨーロッパで勢力を拡大するのは不都合です。
そのため、ドイツとオーストリア=ハンガリーが手を組むことに大きなメリットがありました。
イタリアの参加
イタリアも当時は統一を果たして日が浅く(統一がほぼ完成したのは1870年)、国際社会の中で地位を高めるのに必死でした。
イタリアは「未回収のイタリア」と呼ばれる地域(トリエステなど)をオーストリア=ハンガリーに奪われており、本来はあまり仲が良いとは言い難い関係です。
しかし、フランスとも北アフリカなどの植民地獲得をめぐり対立していました。
とくに、フランスが1881年にチュニジアを保護領にしたことにイタリアは強く反発します。
チュニジアはイタリアから見ると非常に近い地域で「自分たちの植民地にしたい!」という野心を抱いていた場所だったのです。
このフランスとの対立感情が、イタリアをドイツやオーストリア=ハンガリー側に近づける重要なポイントとなりました。
こうした複雑な思惑が絡み合い、1882年には正式にドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国が軍事同盟を結ぶことになります。
これこそが「三国同盟」の誕生です!
三国同盟の締結とその内容
同盟の目的
三国同盟の狙いは大きく分けて次の3つでした。
- フランスの孤立化:ドイツとしては、フランスがドイツに復讐戦を仕掛けるリスクを抑えたい。イタリアとしても、北アフリカで対立するフランスを牽制したい。
- ロシアの進出に対する備え:バルカン半島への影響拡大を図るロシアを封じ込めるため、ドイツとオーストリア=ハンガリーが互いを後ろ盾として頼り合う。
- 国際的な地位向上:イタリアはドイツやオーストリア=ハンガリーと手を組むことで、自身の存在感をヨーロッパで高めたい。
ドイツ・オーストリア=ハンガリー側の思惑
ドイツとオーストリア=ハンガリーが最重要視したのは、やはりフランスやロシアに対抗できる体制の確立でした。
ドイツは統一したばかりの国力で一気に台頭し、オーストリア=ハンガリーは多民族国家として国内に不満も抱えていたため、外部からの戦争を未然に防ぎたい思惑がありました。
ドイツにとっては、イタリアを味方につけることで地中海方面でのフランスの動きを牽制しやすくなる利点がありました。
同時に、イタリアにとっては「フランスと対立しても味方がいる」という安心感が得られるわけです。
ビスマルクはこの同盟関係を手堅く維持しながら、フランスの国際的孤立を図ろうとしました。
イタリアの思惑
イタリアとしては、オーストリア=ハンガリーに対して領土的な恨みがあったものの、目先の国際関係(フランスとの植民地争い)が優先されました。
「いつか未回収のイタリアを取り戻すにしても、今はフランスの脅威を凌ぐ方が大事だ」という計算が働いたのです。
しかしイタリアには、三国同盟に参加した後も「本当にドイツ・オーストリア=ハンガリーと組んで大丈夫なのか?」という疑念が常につきまとっていました。
そのため、条約内容には秘密条項も多く含まれており、状況に応じて離脱する余地も残されていました。
三国同盟が世界に与えた影響
列強同士の対立激化と三国協商の形成
三国同盟の成立は、ヨーロッパ列強間の緊張を一気に高めました。
ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアというブロックが誕生したことに対し、フランス・ロシア・イギリスが警戒感を強めたのです。
フランスはロシアと手を結んで1894年には仏露同盟を結成。
さらにイギリスも、ドイツの海軍増強や世界各地での植民地対立などを理由にフランスやロシアと接近し、1907年に三国協商が完成しました。
これにより、ヨーロッパは「三国同盟 vs. 三国協商」という2つの大きな勢力に分裂し、軍拡競争がさらに拍車をかけられていきます。
バルカン半島の火種
オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島をめぐって対立していた構図は、一触即発の状態を作り出していました。
バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とまで呼ばれるほど、民族紛争や列強の介入が絶えない地域です。
特にオーストリア=ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したことで、セルビアやその後ろ盾のロシアの不満が大きく高まりました。
こうした緊張状態は、やがて1914年のサラエボ事件(オーストリア皇太子夫妻暗殺事件)を契機として爆発し、第一次世界大戦へとつながっていきます。
軍拡競争と世界大戦への序曲
三国同盟と三国協商の対立構造は、いわば「どちらが先に攻めてきても対応できるように!」と各国が軍備を拡大する「軍拡競争」を招きました。
特にドイツは陸軍大国としての地位を確立しつつ、イギリスの脅威に対抗するために海軍を急速に拡張していきます。
イギリスは「世界最強の海軍国家」というプライドを持っていたため、これを座視できず海軍力増強に拍車をかける結果に。
ヨーロッパ諸国がすべて戦争に備えて武装を強化していく中で、国際協調はどんどん遠のいていきました。
こうした状況が「いつか戦争が起こってもおかしくない」という不安定な状態を加速させ、結果的に小さな火種が大きな戦火へと燃え広がる土壌を作り上げてしまったのです。
三国同盟の瓦解とその後
第一次世界大戦とイタリアの離脱
三国同盟は1891年、1902年、そして1912年と定期的に更新されてきましたが、実際にはさまざまな利害関係のズレが生じていました。
とくにイタリアは、オーストリア=ハンガリーとの領土問題が根強く、同盟関係は表面上ほど強固ではなかったのです。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、当初イタリアは中立を宣言します。
そして1915年、イタリアは秘密条約(ロンドン条約)を結んで協商国側(イギリス・フランス・ロシア陣営)に参戦を表明しました。
これによって三国同盟は事実上崩壊します!
イタリアが同盟を捨てた背景には、「協商国側につけばオーストリア=ハンガリーから未回収のイタリア(トリエステや南チロルなど)を奪回できるかもしれない」という思惑がありました。
戦後の講和条約で自国の利益を最大化するため、どちらの陣営につくかを見極めていたわけですね。
ドイツ・オーストリア=ハンガリーの孤立化
イタリアの離脱によって三国同盟は事実上「二国同盟」のような形になり、ドイツとオーストリア=ハンガリーはますます孤立していきます。
世界大戦が長期化するにつれ、それまでの軍拡競争で蓄えてきた資源や戦力も消耗し、各国の戦意は消耗戦に突入。
1918年にドイツ革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位すると、ドイツ帝国は崩壊。
オーストリア=ハンガリー帝国も同年に帝国解体を迎えました。
三国同盟がもたらしたヨーロッパの勢力均衡は、第一次世界大戦によって大きく変質し、パリ講和会議(1919年)やヴェルサイユ体制によって新たな国際秩序が組み立てられることになります。
こうして三国同盟の時代は幕を閉じ、ヨーロッパ地図も再編されたのです。
まとめ
いかがでしたか?
最後にポイントを整理してみましょう!
- 歴史的背景
- ドイツは1871年に統一を達成し、ビスマルクのもとヨーロッパの安定と自国の安全保障を最優先
- 普仏戦争の恨みを買ったフランスを孤立させるために、周辺諸国との同盟を推進
- イタリアはフランスのチュニジア保護国化に反発し、同盟に加わる
- バルカン半島をめぐるオーストリア=ハンガリーとロシアの対立が大きな火種に
- その後の影響
- 三国同盟に対抗してフランス・ロシア・イギリスが三国協商を形成
- ヨーロッパが二大陣営に分かれて軍拡競争が激化、第一次世界大戦の遠因に
- 戦争勃発後、イタリアは協商国側について参戦、三国同盟は瓦解
- 大戦後、ドイツとオーストリア=ハンガリーは帝国が解体され、ヨーロッパの勢力図が再編
三国同盟は、一見すると「戦争を起こさないための抑止力」として機能する面がありましたが、その裏では結果的に緊張を高め、相手陣営も新たな同盟を結ぶきっかけを作ってしまいました。
ヨーロッパは三国同盟と三国協商に分かれてがっぷり四つに組み合い、そこにバルカン半島の不安定要素が加わって第一次世界大戦へと突き進んでいったのです。
国家間の同盟は、互いの安全保障に役立つ半面、世界的視点では「対立軸を際立たせ、戦火の拡大を招く」という危険性も孕んでいます。
三国同盟は、その象徴的な例といえるでしょう。