今回は、複雑に見えがちなロシアの歴史を初学者の方にもわかりやすく解説していきます。
ポイントを押さえながら、壮大なロシアの歴史の流れを一緒にたどっていきましょう!
広大なロシアの風土とロシア史のはじまり
ロシアといえば世界最大の国土面積を誇ることで知られています。
ヨーロッパの東端からアジアにかけて大陸をまたぐこの地域には、多様な民族や文化が存在してきました。
現代では「ロシア連邦」として知られていますが、その歴史はとても奥深く、ヨーロッパ史やアジア史とも密接につながっています。
ロシア史を学ぶうえで大切なのは「いつ、どのように国がまとまり始めたのか」という視点です。
ロシアという国の起源をさかのぼると、9世紀頃の「キエフ公国」(キエフ・ルーシ)がその源流とされています。
現在のウクライナの首都であるキエフを中心とした公国で、当時はスラブ系の人々をはじめとする多様な民族が暮らしていました。
キエフ公国の成立とキリスト教の受容
キエフ公国の台頭
9世紀から12世紀ごろにかけて栄えたキエフ公国は、東スラブ地域で最初のまとまった国家とされます。
ノルマン系のルーシ族が支配者層となり、交易ルートの要所であったキエフを中心に勢力を広げました。
この時代は「ロシア」という統一的な意識こそまだ弱かったものの、やがてロシア史に連なる文化や政治の基礎がつくられ始めた時期なのです!
キリスト教改宗の大きな影響
キエフ公国の歴史を語るうえで欠かせないのが、10世紀末のウラジーミル1世によるビザンツ(東ローマ)型のキリスト教導入です。
彼が正教会に改宗したことで、ロシアはビザンツ帝国や東欧諸国とのつながりを深めるようになりました。
特に宗教は人々の生活習慣に大きく影響するため、後のロシア正教が社会の中心的な役割を担う大きなきっかけとなったのです。
モンゴルの支配と「タタールのくびき」
モンゴル帝国の侵攻
13世紀に入ると、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国がロシア一帯へも進出しました。
バトゥ率いるモンゴル軍によってキエフ公国をはじめとする地域は破壊され、多くの公国がモンゴルの支配下に入ります。
この時代は「タタールのくびき」と呼ばれ、ロシア史においては苦難の時期でした。
モンゴル支配が与えた影響
モンゴルの支配下で公国同士の連帯は弱まりましたが、一方で東西の交易ルートが整い、多様な文化や技術が伝わってきた面もあります。
また、モンゴルの統治方法を学んだロシアの公国は、後に中央集権的な政治体制を整えていくうえで大きく影響を受けることになりました。
歴史の皮肉ともいえますが、モンゴルの猛威と支配が、のちのロシア国家の形をつくる一因となったのです。
モスクワ大公国の台頭とロシア統一へ
モスクワ大公国の成長
モンゴル支配の時代、モスクワは地理的にやや辺境に位置していましたが、次第に政治的・経済的な力を蓄えていきます。
特に14世紀のイヴァン1世は巧みにモンゴルと交渉し、租税徴収の役割を担うことで勢力を伸ばしました。
これがモスクワ大公国としての基礎になっていきます。
イヴァン3世と「ロシア」の自覚
15世紀後半になると、モスクワ大公のイヴァン3世(大帝)がキエフ公国時代の遺産を「自分こそが継承者である」と主張しはじめました。
彼はノヴゴロドなど強大な都市国家を併合し、ついにモンゴル支配からの独立を達成します。
このころから「ロシア」という呼称がより強く意識されるようになり、ロシア史における新たな統一の時代が幕を開けるのです!
ツァーリの誕生とロシア帝国への道
イヴァン4世(雷帝)の時代
16世紀中頃、イヴァン4世が初めて「ツァーリ」(皇帝)と自称し、中央集権化をさらに進めました。
その絶大な権力と、しばしば恐怖政治とまで呼ばれる統治方法から、彼は「雷帝」として知られています。
一方でシベリアへの進出をはじめるなど、ロシアの領土拡大の基盤を固めたのもこの時期です。
ロマノフ朝の成立
イヴァン4世の死後、ロシアは不安定な時代を迎えましたが、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリとして即位し、ロマノフ朝が始まります。
この王朝は1917年の革命まで約300年続くこととなり、ロシア史の中核を成す重要な王朝となりました。
ロマノフ朝のもと、ロシアはさらに拡大しながらヨーロッパ世界との結びつきを深めていきます。
ピョートル大帝と近代化への第一歩
西欧化政策の推進
ロマノフ朝を語るうえで外せないのが、17世紀末から18世紀初頭にかけて活躍したピョートル1世(ピョートル大帝)です!
彼は自ら西ヨーロッパに赴き、海軍や工業技術を学んでロシアへ持ち帰りました。
首都をサンクトペテルブルクに移し、建築や文化面でも西欧の影響を積極的に取り入れたのです。
大帝の残した功績
ピョートル大帝の改革により、ロシアは近代国家としての基礎を築きました。
海軍の建設によって国際的な軍事力が強化され、バルト海沿岸の領土も獲得。貴族の服装や習慣にも西洋化を求めるなど、社会全般にわたって変革を断行しました。
ロシア史を大きく動かした偉大な君主として、今でも大変人気の高い人物です。
エカチェリーナ2世と啓蒙専制君主
ロシアを大国に押し上げた女帝
18世紀後半に即位したエカチェリーナ2世も、ロシアをヨーロッパの大国に成長させた傑出した君主として知られています。
彼女はフランス啓蒙思想にも関心を寄せ、国内改革を進めながらも貴族階級を巧みに味方につけ、中央集権化を強化しました。
また、オスマン帝国との戦いで勝利し、クリミア半島や黒海沿岸を手に入れるなど、領土拡大にも成功しています。
ヨーロッパ列強との兼ね合い
エカチェリーナ2世の時代、ポーランドの分割にも積極的に関与し、ロシアはヨーロッパ列強の一角として確固たる地位を築きました。
しかし、その一方で農奴制が強化され、農民は厳しい状況に置かれたまま。
のちのロシア革命へとつながる大きな社会矛盾が、すでにこの時期から生じていたのです。
19世紀の改革と動乱
ナポレオン戦争と愛国心の高まり
19世紀初頭、ヨーロッパを席巻したナポレオン戦争の影響はロシアにも及びました。
ナポレオンがロシア遠征を行った際、ロシア軍は焦土作戦を実行し、モスクワを放棄してまでナポレオン軍を消耗させる作戦をとりました。
極寒の冬も相まってナポレオン軍は撤退を余儀なくされ、ロシアは「祖国戦争」として勝利をおさめます。
これにより国民的な愛国心が強まり、ヨーロッパ各国におけるロシアの影響力も高まりました。
農奴解放令とその影響
19世紀半ば、アレクサンドル2世はロシアの社会改革に着手し、その象徴として1861年に農奴解放令を発布しました!
これは長年続いた農奴制を廃止する画期的な改革でしたが、農民に自由を与えながらも、十分な土地と支援が行き渡らないなどの問題が山積みで、農民の生活は思うように向上しなかったのです。
ロシア革命とソビエト連邦の成立
第一次世界大戦と皇帝制の崩壊
20世紀初頭、ロシアは日露戦争の敗北や第一次世界大戦への参戦などで国力を消耗していました。
国民の不満が爆発するなか、1917年に二つの革命が起きます。
3月革命(旧暦では2月)ではロマノフ朝が崩壊し、臨時政府が成立。
その後、11月革命(旧暦では10月)でレーニン率いるボリシェヴィキが政権を掌握し、世界初の社会主義国家としてソビエト・ロシアが誕生しました。
ソビエト連邦への移行と内戦
革命後、国内は白軍(反革命勢力)と赤軍(ボリシェヴィキ)による内戦へと突入し、国内は混乱の渦に巻き込まれます。
最終的には赤軍が勝利し、1922年にロシアなど複数の共和国が結集して「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が成立しました。
これがロシア史にとって大きな転換点であり、世界史にも大きな影響を与える出来事となったのです。
スターリンの時代:恐怖政治と大国化
レーニンの死とスターリンの台頭
ソビエト連邦成立後、指導者であったレーニンが1924年に死去すると、後継者争いが起こります。
そのなかで実権を握ったのがヨシフ・スターリンでした。
スターリンは書記長の地位を巧みに利用し、党内で権力基盤を固めるとともに、反対勢力を排除していきます。
彼の長期政権はソビエト連邦の性格を大きく変えていくことになるのです。
五カ年計画と工業化
スターリンは急速な工業化と農業集団化をめざし、1928年から「五カ年計画」をスタートさせました。
製鉄や石炭など重工業に力を入れ、莫大な資源を投下することで急激な経済成長を図ったのです。
都市部では工場労働者が増え、国全体としては軍事力や経済力を飛躍的に高めることに成功しました。
このスターリン期の工業化政策は、のちの第二次世界大戦においてソ連が軍事的に対抗できる強さを得る要因ともなりました。
農業集団化と農民の悲劇
一方で、農業では大規模な集団農場(コルホーズ、ソフホーズ)が導入されましたが、農民たちにとっては苦難の始まりとなります。
旧来の農民共同体を無理やり集団化し、食糧を国家管理に置いたために、多くの農民が生活基盤を奪われました。
さらに穀物の強制徴収などによって各地で飢饉(ウクライナのホロドモールなど)が発生し、莫大な死者が出たのです。
大粛清とスターリンの恐怖政治
スターリン時代を語るうえで外せないのが「大粛清」です。
1930年代後半、スターリンは党や軍内部に潜む「反革命分子」を一掃するため、大規模な粛清を断行しました。
多くの旧ボリシェヴィキ幹部や将軍、知識人、一般市民までもが「スパイ」や「陰謀」の罪で逮捕され、処刑や強制収容所送りとなったのです。
国民には徹底した弾圧と検閲が行われ、スターリン個人崇拝が強化されることで、政治的自由はほぼ失われました。
スターリンの独裁体制の下で軍事力を増強したソ連は、第二次世界大戦において大きな役割を果たします。
第二次世界大戦とソ連の大国化
独ソ戦の激戦
第二次世界大戦では、ドイツのヒトラー率いるナチス・ドイツとソ連は当初不可侵条約を結んでいましたが、1941年にドイツが突如侵攻を開始。
独ソ戦と呼ばれる壮絶な戦いが繰り広げられました。スターリングラード(現ヴォルゴグラード)での大規模な戦闘など、多くの犠牲を出しながらもソ連は反撃に転じ、最終的にベルリンを陥落させて大戦勝利の原動力となります。
戦後の冷戦時代へ
第二次世界大戦で大きな被害を受けながらも、ソ連はヨーロッパ東部を勢力下に置き、世界の二大勢力の一角を担う超大国となりました。
アメリカとの冷戦構造が確立すると、核開発や宇宙開発競争が加速し、世界は二つの陣営に分かれた緊張状態に。
ソ連は社会主義体制を世界各地へ広めようとしましたが、内部では経済の停滞や国民の不満が徐々に高まっていきました。
ソ連の崩壊と現代ロシア
ゴルバチョフの改革とペレストロイカ
1980年代後半、ミハイル・ゴルバチョフはソ連の停滞した社会主義体制を立て直すため「ペレストロイカ」(改革)と「グラスノスチ」(情報公開)を推進しました。
政治の自由化と経済改革を目指すも、各共和国の独立機運は高まり、国全体のコントロールが効かなくなっていきます。
ソ連解体とロシア連邦の成立
1991年、ソ連は正式に解体し、ロシアを含む各共和国が独立国家となりました。
最大の共和国だったロシアは「ロシア連邦」として再出発を遂げます。
以後、経済の自由化や資本主義の導入により混乱が生じる一方、エネルギー資源の輸出によって国際的な影響力を保ち続けました。
21世紀に入ってからはウラジーミル・プーチンが長きにわたり政権を握っており、強権的な政治姿勢と国際社会との駆け引きが注目を集めています。
2022年のウクライナ侵攻より、悲惨な戦争を続けている当事国でもあります。
現代のロシアの動向を追うことは、これからの世界の平和を考えることでもあるのです。
まとめ
こうして見てみると、ロシア史はヨーロッパとアジアのはざまで多様な影響を受けながら進んできたことがわかります。
キエフ公国から始まり、モンゴルの支配を経てモスクワ大公国が台頭。ツァーリ体制からロマノフ朝、そしてロシア帝国へと拡大し、革命によってソ連となって社会主義体制を確立。
その後、冷戦という世界規模の対立を経て、ソ連崩壊後はロシア連邦として新たな時代を歩んでいます。
ロシア史は一筋縄ではいかない壮大なストーリーですが、その根底にあるのは「広大な領土をどのように統治し、どのように周辺諸国と関係を結ぶか」というテーマです。
ぜひロシア史の世界を楽しみながら、さらに学びを深めてみてくださいね!