日本の歴史

はじめてでもわかる日光東照宮の歴史!徳川家康と豪華絢爛な建造美

日光という土地のはじまり

日光東照宮についてお話しするには、まず「日光」という土地の歴史から触れるのが大切です!

日光は古くから山岳信仰の対象とされ、神聖な雰囲気を漂わせる場所として人々に崇められてきました。

関東平野から北へ向かい、雄大な山々と美しい湖が広がるこの地域は、神域として特別な意味合いをもっていたのです。

とりわけ男体山(なんたいさん)や中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)は、古来より「山岳修行」の場としても知られ、多くの修験者や僧侶が訪れました。

このように日光は自然のパワーに満ちあふれており、人々は心を清めるために山へ登り、湖で身を清めるなどして精神的な高みを目指していたと伝えられています。

修験道の発展と勝道上人

この日光における霊場としての歴史を語るうえで欠かせない人物が、奈良時代末期から平安時代初期にかけて活躍した「勝道上人(しょうどうしょうにん)」です。

勝道上人は山岳修行に深く打ち込み、その神秘的な力を広く人々に伝えるため、日光山を開いたともいわれます。

勝道上人は男体山に登り、山頂に社を築いたとされ、これが日光を霊場として確立する大きなきっかけになりました。

ただし、勝道上人が活動していた時代はまだ「東照宮」は存在していません。

けれども、後に徳川家康が祀られることになる日光の基盤を作った人物として、その功績は非常に大きいのです。

日光の信仰と幕開け

勝道上人が広めた山岳信仰や修験道によって、日光は「霊験あらたかな地」として多くの人々の関心を集めるようになりました。

その結果、各地から巡礼者が訪れ、山中や湖畔にはさまざまな施設が整っていきます。

そして時代が進むにつれ、日光は「江戸から比較的近い霊場」として、都からの注目度も少しずつ高まっていったのです!

こうした流れの先に生まれたのが、後に世界遺産にも登録される日光東照宮。

では、次の章からは、いよいよ日光東照宮そのものの歴史に焦点を当ててみましょう!

徳川家康と東照宮創建のはじまり

日光東照宮が創建された背景には、戦国の世を終焉へと導いた徳川家康という人物の存在が欠かせません!

家康は1560年の桶狭間の戦いをはじめ、数々の戦乱をくぐり抜けて天下統一への道を歩み、1603年に征夷大将軍となりました。

そして「江戸幕府」を開き、長らく平和な時代を築いたことは広く知られています。

家康の遺言と日光への祀り

徳川家康は1616年に75歳でこの世を去るのですが、家康が死の直前に発した言葉として有名なのが「遺体は久能山に葬り、後に日光へ移して祀れ」という遺言です。

この遺言が、日光東照宮誕生の大きな始まりでした。

家康が日光を指定した理由には諸説ありますが、「山岳信仰の聖地である日光に自らを神として祀ることで、江戸を守護し、江戸幕府の繁栄を永遠に続けたい」という願いがあったとされています。

また、風水的な観点から見ても、江戸を支える強いパワーが日光の山々には宿っていると考えられたのです。

東照大権現としての家康

家康は神格化され、「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」という尊号で祀られることになります。

大権現とは「現世に仏の力をもたらす権化」という意味をもち、「東の方角を照らす」「東の平和を守る」という祈りが込められているとも言われます。

日光に祀られた家康が江戸をはじめとする東国を照らし、国を鎮護する神として尊崇を集めたのですね。

江戸幕府と東照宮創建

家康の遺言を受けて、まずは二代将軍徳川秀忠が現在の位置に家康を祀る神社を整備しました。

これが「東照宮」のスタートです!

しかし当初は現在のような華麗な社殿ではなく、ごく質素な造りだったといわれます。

徳川秀忠としては、亡き父をきちんと弔い、神として祀ることで家康の威光を残す意図もあったでしょう。

しかし、日光東照宮が現在のように絢爛豪華な姿になったのは、三代将軍である徳川家光による大改修以降

次章では、家光が行った大規模な工事と、東照宮の発展について掘り下げていきます!

三代将軍徳川家光による大改修と豪華絢爛な社殿

徳川家光は家康の孫にあたり、幼い頃から祖父を神のように慕っていたと伝えられています。

家光にとって、日光に祀られている家康は単なる祖父ではなく「東照大権現」という絶対的な存在。

その敬愛の深さは、東照宮の大改修という大事業を通じて形となりました!

驚くべきスピードと規模

家光による大改修は、1634年(寛永11年)から1636年(寛永13年)までのわずか2年余りの短期間で行われました。

数万人規模の人員が全国各地から集められ、資材としては上質な木材や金をふんだんに使用。

その結果生まれたのが、きらびやかな彫刻や極彩色の装飾が施された社殿群です。

社殿の屋根や柱には金箔が惜しみなく使われ、漆や彩色も当時の最高技術が投入されました。

このように工芸と建築の粋を結集した豪華な造りは、海外の建築史から見てもまれに見る芸術作品といわれています!

眠り猫や三猿

日光東照宮を語るうえで外せないのが、「眠り猫」や「三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)」など、数多くの見どころのある彫刻群です。

  • 眠り猫
    有名な左甚五郎(ひだりじんごろう)の作とされ、日光東照宮の象徴的存在となっています。猫が眠っている姿をかたどった彫刻ですが、その猫が守る先に「雀」の彫刻もあるというのがポイント。普通なら猫と雀は天敵ですが、仲良く共存している姿が「平和と安寧」を象徴しているといわれています!
  • 三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)
    神厩舎に彫刻された一連の作品で、人生の教えを寓意的に描いたものとされます。悪いことは見ない、言わない、聞かないという教訓として昔から親しまれてきました。また、単に道徳的な意味合いだけではなく、日光山に棲息する猿たちとの関わりや神の使いとしての猿の存在を示す意図もあったという説があります。

これらの彫刻は、当時の高度な彫刻技術を集結させただけでなく、象徴性や宗教的メッセージも込められています。

まさに日光東照宮の芸術的価値と宗教的意義を示す代表的な要素といえるでしょう。

建築技術の粋が集結

三代将軍家光による大改修は、建築家や彫刻家、絵師など各分野の名匠たちをかき集めた大プロジェクトでした。

日本全国から職人が集まり、当時の最先端技術が惜しみなく投入されています。

木組みや装飾はもちろん、耐久性を考慮した基礎工事など、現代にも通じる高度な技術力が確認されています!

こうした工夫があったからこそ、400年近い時を経てもなお、日光東照宮はその美しさを保ち続けているのです。

家光が祖父家康へ捧げた敬意と愛情が、この荘厳な社殿の姿に結晶しているとも言えるでしょう。

江戸時代を通じた日光東照宮の発展

三代将軍家光の大改修が完了してからは、日光東照宮は江戸幕府の重要な聖地となりました。

将軍や大名が参拝するたびに、さらに整備や修繕が行われ、東照宮の存在感はますます高まります!

ここでは、江戸時代を通じてどのように東照宮が庇護され、発展していったのかを見ていきましょう。

徳川歴代将軍の参拝と修繕

徳川家の将軍にとって、日光東照宮の参拝は一種の「権威の誇示」でもありました。

壮麗な社殿や彫刻を目にすることで、全国の大名や家臣に「徳川家が築く平和と秩序の象徴」を示す場でもあったのです。

将軍が参拝するときには、多くの供を従えて日光街道を進み、その道中でも日光への信仰をアピールする役割があったともいわれます。

歴代将軍は参拝時に必要となる修繕費や維持費を惜しまず投じ、社殿の美しさを保ち続けました。

そのため、日光東照宮は江戸時代を通じて常に大切に扱われ、建物が荒廃することはほとんどなかったのです。

参詣道と宿場町の発展

江戸幕府が整備した五街道の一つ「日光街道」は、江戸から日光へと続く重要なルートでした。

この街道沿いには多くの宿場町が発達し、参拝客や巡礼者を受け入れるための旅籠やお店が立ち並ぶようになります。

こうして街道筋の町は大いににぎわい、人々は日光への旅を楽しみながら、道中で文化的な交流も深めていきました。

当時の旅のスタイルは「御師(おし)」と呼ばれる案内役を伴っての団体巡礼が一般的だったと言われます。

日光山の霊場や東照宮をめぐるこの旅は、信仰行為であると同時に一種のレジャーでもあり、江戸庶民の楽しみの一つでした!

庶民の憧れと霊験

日光東照宮は豪華絢爛なだけでなく、家康が神として祀られている神社ということで「勝運」や「出世開運」のご利益があると信じられました。

また、もともと日光は霊場としての歴史が長く、病気平癒や厄除けにもご利益があるとされ、幅広い層に崇敬される存在となったのです。

また、東照宮は全国各地に分社・勧請(神様を分けて祀ること)され、「東照宮」の名前を冠する神社が増えていきました。

これによって、日光だけでなく日本各地で家康への信仰が広まっていったのです。

江戸幕府とともに栄えた「日光東照宮」は、当時の日本社会にとって欠かせないシンボルになっていきました。

明治維新から昭和までの激動期

長らく徳川家の庇護の下で発展してきた日光東照宮ですが、幕末から明治維新にかけて大きな時代の転換点が訪れます。

徳川幕府の崩壊後、新政府は「神仏分離」や「廃仏毀釈」といった政策を進め、日本各地の寺社が大きな影響を受けました。

神仏分離と東照宮の位置づけ

日光山には長い歴史をもつ寺院も数多く存在していました。

しかし、1868年(明治元年)以降、新政府は神道を国家の宗教として推進するため、「神仏混淆を解消せよ」という命令を全国に出しました。

これにより、日光山の寺院と神社の区分が明確に分けられ、東照宮も神社としての性格がより強調される形になったのです。

ただし、東照宮自体はもともと家康を神として祀っている神社であり、仏教色が強かったわけではありません。

そのため、他の寺院に比べると大きな破壊や被害は受けずに済んだといわれています。

とはいえ、幕府の後ろ盾がなくなったことで、経済的にも運営面でも少なからず打撃があったのは事実でした。

明治・大正・昭和期の管理と保存

明治以降、新政府によって神社を格付けする制度が導入されました。

東照宮は皇室や国家と密接な関係がある「官幣社」と位置づけられ、政府からの保護を受ける形になりました。

これによって一定の安定はもたらされましたが、徳川家の私的な神社としての色合いは薄れ、国の管理下に置かれる公的存在として性格が変化していったのです。

大正・昭和期にかけても、時代の変化に合わせて東照宮の管理体制は見直されました。

第二次世界大戦時には空襲被害を免れたものの、戦後の混乱期には経済的に苦しい時期もあったと言われます。

しかし、歴史的価値や文化的意義が認められていたため、国宝や重要文化財として保護対象となり、長い年月を経てもその姿を保ち続けることができたのです。

文化財保護運動と観光地化

昭和初期から戦後にかけて、日本各地で文化財を守ろうとする意識が高まりました。

戦争による破壊や物資不足の中でも、日光東照宮のような歴史的建造物は「日本の宝」として多くの人々の支援を受けることができました。

その後、交通網が整備され、観光という概念が一般に浸透すると、日光は「東京から日帰りで行ける避暑地」「自然と歴史を楽しめる地域」として人気が急上昇!

東照宮も国内外から多くの観光客を迎えるようになったのです。

世界遺産登録と現代における東照宮の意義

20世紀後半になると、ユネスコが世界遺産条約をスタートさせ、世界各地の文化・自然遺産を保護しようという流れが生まれました。

日本でも奈良や京都などの古都にある寺社が世界遺産に登録され、日光の社寺も国際的な評価を受けるようになります!

世界遺産への登録

1999年(平成11年)、日光の二社一寺(東照宮、日光二荒山神社、輪王寺)は「日光の社寺」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

これにより、日光東照宮は世界的にも「人類共有の宝」として認められたのです。

これを機に海外からの観光客も増加し、現在ではインバウンド需要を支える重要な観光地の一つともなっています。

現代の修繕と保存活動

日光東照宮は400年近い歴史をもつ木造建築物が多く、風雨や地震などによるダメージを避けて通ることはできません。

そこで、文化財保護の観点から定期的に大規模修繕が行われます。

直近では「平成の大修理」と呼ばれるプロジェクトが進められ、本殿や陽明門などが丹念に修復されました。

金箔や漆の塗り直し、木材の交換など、当時の工法や材料にできるだけ忠実に修理を行うことで、歴史的価値を損なわずに次の世代へ受け継ぐ努力がなされているのです。

現代人にとっての東照宮

今や日光東照宮は「歴史や文化を感じられる観光名所」としてだけでなく、「神様が宿るパワースポット」としても多くの人の心を惹きつけています。

特に近年では、SNSなどを通じて美しい写真や感動体験が共有されることで、若い世代の参拝客も増えているのです!

また、御朱印ブームや歴史ブームの影響もあり、徳川家康や徳川家光の物語とともに東照宮を巡る人が増えています。

こうした現代的な楽しみ方も、日光東照宮が常に新しい価値を生み出し続ける理由の一つといえるでしょう。

まとめ

歴史や信仰が重なり合って生まれた日光東照宮は、単なる「建築物」や「観光地」ではなく、江戸幕府と日本文化の深層を知るうえで欠かせない場所です。

ぜひ実際に訪れて、その空気感を味わってみてください!

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