オランダとはどんな国?
オランダはヨーロッパ北西部に位置し、正式名称を「オランダ王国(Kingdom of the Netherlands)」といいます。
首都はアムステルダム。
国土の多くが海抜より低い場所にあるため、水とのかかわりがとても深いんです!
そんな地形的な特徴もあって、堅固な堤防や水路が数多く整備されてきた背景があります。
日本では「オランダ」と呼んでいますが、英語だと「Netherlands(ネザーランズ)」という名前が使われます。
では、そんなオランダがどのようにして今の姿になっていったのか? 歴史をさかのぼって見ていきましょう!
中世からルネサンス時代まで
中世のオランダ地域
現在のオランダにあたる地域は、中世にはさまざまな領主たちが小領地を治める分権状態にありました。
フランク王国が勢力を拡大していた時期には、カール大帝(シャルルマーニュ)の支配下に入り、その後フランドル伯領やブルゴーニュ公国などの影響も受けながら発展を続けます。
この時代のオランダは、港湾都市を中心に交易が盛んでした。
特に北海やバルト海方面との貿易が活発で、ハンザ同盟とも結びついていました。
商人たちの力が成長し、市民階級の存在感が高まっていったのが特徴です。
15〜16世紀頃の変化
15世紀後半から16世紀にかけては、ブルゴーニュ家の支配の後、ハプスブルク家(神聖ローマ帝国の名門)による支配が強まります。
特に神聖ローマ皇帝カール5世(スペインのカルロス1世を兼任)がネーデルラント(当時の呼び方)を治めていたことが有名です。
やがて、ルネサンスの波がヨーロッパ全体を包み込み、新しい学問や芸術が花開きました。
オランダは北ヨーロッパにおける人文主義の中心地の一つとなり、エラスムスのような著名な学者も輩出しています!
当時の文化・芸術の動きは、後の「オランダ黄金時代」の下地にもなっていきました。
スペインからの独立と八十年戦争
カルヴァン派の拡大と宗教対立
16世紀になると宗教改革の動きが加速します。
特にオランダ地域では、ジャン・カルヴァンによる宗教改革の影響が強まり、カルヴァン派が広く支持されました。
しかしスペイン王家(ハプスブルク家)はカトリックを守ろうとしていたため、宗教の違いから統治への不満が高まっていきました。
八十年戦争勃発
1568年、いわゆる八十年戦争が始まります!
これはオランダ地域(ネーデルラント)の独立をかけた長期戦争で、オランダ総督のウィレム1世(オラニエ公ウィレム)が指導的役割を担いました。
戦争の背景には宗教対立だけではなく、重税による経済的圧迫や自治を求める市民階級の声もありました。
その結果、1581年にスペイン王の統治を正式に放棄する宣言(「ユトレヒト同盟」締結後)を行い、北部7州が「ネーデルラント連邦共和国」として独立への道を歩み始めます。
一方、南部地域(現在のベルギー周辺)はカトリックが強く、スペイン側にとどまる動きがありました。
こうして北部と南部に分断されていくのです。
八十年戦争は1648年のウェストファリア条約で終結し、オランダの独立が国際的に承認されました!
この独立を勝ち取った後にオランダが迎えたのが、いわゆる「黄金時代」です。
オランダ黄金時代(17世紀)
世界貿易と文化の花開き
17世紀のオランダは「オランダ黄金時代」と呼ばれるほど、経済的・文化的に非常に繁栄しました。
特に東インド会社(VOC)の活躍が象徴的です。
VOCは世界初の株式会社ともいわれ、アジア各地と盛んに貿易を行いました。
日本の長崎・出島にも拠点を持ち、江戸時代の日本とは「鎖国政策下でも唯一つながっていた欧州の窓口」として、貴重な交流を担っていました!
また、この時期には絵画も大きく発展します。
レンブラントやフェルメールなど、今でも世界的に有名な画家が次々に登場しました。
彼らが残した作品は、美術史においても大きな意義を持ち、現在まで愛され続けています。
共和制と政治体制
黄金時代のオランダは「共和国」を名乗り、君主ではなく総督(スタットホルダー)を中心とした独特の政治体制をとっていました。
ただし、実態としては強力な商人や貴族が都市を牛耳る寡頭制の傾向があり、完全な民主制とは言い難い面もありました。
とはいえ、当時のヨーロッパの中では比較的自由な風潮があり、他国から迫害を受けたユダヤ人や思想家などがオランダに移り住むケースも多かったそうです。
18〜19世紀:ナポレオンの影響と王国の成立
フランス革命とバタヴィア共和国
18世紀末、フランス革命の影響がヨーロッパ各地に波及します。
オランダでも共和制を改革しようという声が高まり、1795年にフランス革命軍がオランダに侵攻すると、旧来のネーデルラント連邦共和国は倒され「バタヴィア共和国」が成立しました!
しかしこれはフランスの事実上の傀儡政権でもあり、オランダは大きくフランスの影響下に置かれることになりました。
ナポレオン支配と王国の誕生
その後、ナポレオン・ボナパルトの力が強まると、1806年には兄のルイ・ボナパルトを国王に据えて「ホラント王国」が誕生します。
しかしナポレオンが失脚すると、この王国も崩壊。
1813年ごろにはオランダの有力者たちが独立を回復し、オラニエ家を中心に王政を敷くことを選択します。
こうして1815年のウィーン会議の後、「ネーデルラント連合王国」が正式に認められました。
ところが、この連合王国には現在のベルギー地域が含まれており、宗教や経済構造の違いから摩擦が絶えませんでした。
結果、1830年のベルギー独立革命によって分離が起き、オランダは現在の領域をほぼ確立していきます。
近代から現代へ
憲法改正と立憲君主制
19世紀後半になると、欧州諸国でリベラルな憲法体制が整備される動きが進みます。
オランダでも1848年に憲法が改正され、立憲君主制の枠組みが確立しました。
国王の権限は大きく制限され、議会(国会)が国政を主導する形へと変化していきます。
植民地支配と産業革命
同時期、オランダは東南アジアに広大な植民地を保持していました。
特にインドネシア(当時はオランダ領東インド)との関係は深く、天然資源や農産物を大量に持ち帰り、オランダ本国の経済を支えました。
産業革命の波も受け、交通インフラの整備や工業化が進むことで国力を高めていきます。
一方で、植民地支配による労働搾取や文化的抑圧は、後の時代に深刻な問題として影を落とすことになります。
世界大戦と戦後復興
第一次世界大戦
第一次世界大戦(1914〜1918年)では、オランダは中立を宣言しました。
地理的に戦場となることは避けられませんでしたが、本土への直接的な被害は他の戦火を被った国々に比べれば少なめでした。
とはいえ、戦争による経済的打撃や難民の流入など問題は山積みで、中立政策を維持するのは容易ではありませんでした。
第二次世界大戦の衝撃
第二次世界大戦(1939〜1945年)では、オランダはドイツ軍の侵攻を受け、1940年5月に降伏を余儀なくされます。
その後、オランダ本国は占領下に置かれ、ユダヤ系住民を中心に多くの人々が迫害されました。
アンネ・フランクの「アンネの日記」が、この悲惨な時代の証言として残っていますね。
戦争末期には連合軍による解放が進み、オランダは1945年に再び自由を取り戻しました。
しかし戦禍による都市の破壊は大きく、オランダ政府は戦後復興に尽力しなくてはなりませんでした。
インドネシア独立と植民地の縮小
第二次世界大戦後、オランダの植民地支配は急速に弱体化していきます。
最大の植民地であるインドネシアでは、独立運動が高まり、オランダとインドネシアの間で武力衝突も起きました。
最終的に1949年、インドネシアはオランダから正式に独立を承認されます。
その後も多くの植民地が次々と独立していき、オランダは本国中心の小国へと姿を変えていきます。
現代のオランダ
EU統合と国際社会での役割
オランダは第二次世界大戦後、ヨーロッパの統合プロセスに積極的に参加しました。
1957年に結成された欧州経済共同体(EEC)の創設メンバーの一員であり、後の欧州連合(EU)にも中心的役割を果たしています。
国際司法裁判所が置かれるハーグを擁するなど、国際法や平和維持活動でも存在感を示してきました!
多文化社会と福祉国家
現在のオランダは、多文化社会として知られています。
移民を多く受け入れてきた歴史があり、都市部を中心にさまざまな国籍や民族が暮らしています。
国や自治体による社会福祉制度や教育制度が比較的充実しているため、世界でも幸福度が高い国として評価されることが多いです。
もちろん移民政策の見直しや社会保障費の増大といった課題もありますが、「寛容と自由」を重んじる文化は今も根付いています。
王室の存在
オランダは立憲君主制であり、ウィレム=アレクサンダー国王が現在の君主です。
王室は政治権力は持たず、国家の象徴的な存在として国民に親しまれています。
オレンジ色はオランダ王室に由来するカラーで、スポーツの国際試合などではオレンジのユニフォームを着用し、国をあげて応援するのが恒例行事!
これはオランダならではの光景ですね。
まとめ
いかがでしたか?
オランダの歴史は、ヨーロッパ各地との関係の中で「自由」と「交易」を軸に発展を遂げてきました。
スペインからの独立を勝ち取った八十年戦争や、世界貿易をリードした黄金時代、ナポレオン支配からの王国再建、そして2度の世界大戦を乗り越えて現在に至ります。
海面より低い国土を守りながら、常に「新しい何か」を取り入れ、国内外と交わってきたオランダ。
独特の風土と歴史が織り成す文化は、とても魅力的ですよね!
ぜひ、この機会にオランダの歴史に興味を持っていただけたら嬉しいです。