はじめに
満州事変(まんしゅうじへん)は、1931年に日本が中国東北部(当時「満州」と呼ばれた地域)で引き起こした軍事行動を指します。
日本では長らく教科書などで学ぶトピックですが、実際にどのような背景があって、なぜこのような事件が起こってしまったのか、疑問に思う方も多いのではないでしょうか?
この記事では、初心者の方でもわかりやすいように満州事変の流れや影響をやさしく解説していきます!
ポイントを押さえて読んでいただくと、歴史の見方が少し変わってくるかもしれません。
満州事変とは?
まず、満州事変とは何かを簡単にまとめましょう!
満州事変は、日本の関東軍が中国の満州(現在の中国東北部)で起こした軍事衝突をきっかけに始まった、日本と中国との間の武力紛争です。
- 時期:1931年(昭和6年)9月18日に始まり、1932年(昭和7年)までに一連の軍事行動が本格化
- 場所:当時の中国東北部(満州と呼ばれた地域)
- 主導者:日本の関東軍(かんとうぐん)
- 背景:日本の経済不況、国内の軍部の台頭(たいとう)、中国大陸での利権確保など
これをきっかけに日本は国際連盟(こくさいれんめい)から批難され、やがて第二次世界大戦へつながる道を歩むことになります。
なぜこんな大きな動きになったのか?その背景をわかりやすく解説していきましょう!
満州事変の背景
満州との関わり
実は、日本と満州との関係は日露戦争(1904年~1905年)から始まっています。
日露戦争で日本がロシアに勝利し、ポーツマス条約によってロシアが持っていた南満州鉄道(通称:満鉄)の利権を日本が獲得しました。
そこから日本は、鉄道の周辺地域で商売をする特権や警備の名目などを得て、満州に大きく進出していったのです。
満州は当時、資源が豊富で、鉄鉱石や石炭などの天然資源が多く埋蔵されていました。
さらに広大な土地が農作物の生産にも向いていたため、「日本の未来の発展に役立つ地域」として期待が高まっていたのです。
経済不況と軍部の台頭
1930年代初頭の日本は、世界恐慌(1929年に始まった世界的な大不況)の影響を大きく受けていました。
国内では失業者が増え、農村は深刻な不況に陥ります。
そんな中、「国外に活路を見いだそう!」という意見が国内で強まります。
特に軍部は、満州を支配することで資源や土地を手に入れ、日本国内の経済問題を解決しようと考えたのです。
一方で、中国大陸では、蒋介石(しょうかいせき)の指導のもと中国国民党が台頭しており、日本の利権が脅かされるのではないか、と日本側は危機感を募らせていました。
関東軍の独走
当時の日本軍は統制がとれた組織というイメージがあるかもしれませんが、実際には必ずしもそうではありませんでした。
特に中国東北部を担当していた関東軍は、日本本国(東京の政府)からの指令を待たずに、独自に行動する傾向が強かったのです。
関東軍は満州での利権と軍の拡大を優先し、国際社会の反応よりも「どう満州を手に入れるか」を考えていました。
こうした日本国内の軍部の政治介入や独走は、後々さらにエスカレートしていきます。
満州事変の経過
柳条湖(りゅうじょうこ)事件
1931年9月18日夜、南満州鉄道の線路が爆破される事件が起こります。
場所は奉天(ほうてん、現在の瀋陽市)の北方、柳条湖と呼ばれる地域でした。
関東軍は「中国軍が南満州鉄道を爆破した!」と主張し、これを口実に中国軍への攻撃を開始。
実際には関東軍が自作自演で爆破を行い、それを中国軍の仕業だと偽ったと言われています。
こうした工作により、満州事変が勃発したのです。
中国東北部への侵攻
柳条湖事件をきっかけに、関東軍は一気に中国東北部(満州)全域に攻め込みました。
奉天や長春(ちょうしゅん)、ハルビンといった都市を次々と占領。
中国側は内部の政治事情もあって十分な抵抗ができず、短期間のうちに日本軍は満州を支配下に置いていきました。
傀儡政権(かいらいせいけん)の樹立
1932年3月1日、日本は満州国という国を建国したと宣言します。
執政(しっせい)には清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を据えましたが、実権は日本の関東軍が握っていました。
この「満州国」は国際的にはほとんど認められていなかったにもかかわらず、日本政府は「中国から独立した新国家」と主張します。
しかし実態は日本が政治や軍事をコントロールする傀儡(かいらい)の国でした。
満州事変が与えた国際社会への影響
国際社会の反発
満州事変の報道を受け、国際社会は日本に対して強い批判を浴びせます。
当時、日本は国際連盟に加盟していましたが、「日本軍が勝手に中国を侵略している」という見方が広がり、国際連盟では日本への非難決議案が提出されます。
アメリカやイギリスをはじめとする列強諸国も「条約違反ではないか」と疑問を呈しました。
とりわけ、アメリカのスティムソン宣言(1932年)では「軍事行動による領土支配は認めない」という立場を表明し、日本の行動を容認しない姿勢を鮮明にしたのです。
リットン調査団と日本の国際的孤立
国際連盟は、満州で起こっている事態を調査するためにリットン調査団を派遣します。
彼らは現地で状況を視察し、1932年10月に「日本は自衛の範囲を超えている」という趣旨の報告書を提出しました。
この報告書に基づき国際連盟は、1933年2月に「日本の行為は不当」とする決議を採択します。
これに反発した日本政府は1933年3月に国際連盟を脱退!
この脱退によって日本は国際社会から孤立の道を進むことになります。
満州事変後の日本国内の変化
軍部の勢力拡大と政党政治の衰退
満州事変に対して日本国内では「中国を打ち破った」という軍功が大きく宣伝され、軍部の威信は急上昇!
世論もまた「軍がやっていることだから正しい」という雰囲気が広がり、軍の発言力が増す結果となりました。
一方で、国内の政党政治は軍の圧力によって徐々に弱体化。
政党や議会が「軍部に意見することは愛国心に反する」とみなされる風潮さえ生まれたのです。
国策としての大陸進出
満州事変の成功(軍事的観点から見れば短期間で満州を手にした)により、日本の軍部はさらに中国やアジア大陸へと進出する道を進めました。
1937年には日中戦争が本格化し、さらに1941年の太平洋戦争(第二次世界大戦の一部)へとつながっていきます。
満州事変をきっかけに、日本は軍国主義の道を歩み、アジア太平洋地域を巻き込む大きな戦争へ突入していくのです。
国際連盟とリットン調査団の役割
ここであらためて、国際連盟とリットン調査団の役割について整理してみましょう!
国際連盟とは
国際連盟は第一次世界大戦後の1920年に設立された世界初の国際平和機構です。
加盟国同士が話し合いによって国際紛争を解決しようとするものでした。
日本も最初期の常任理事国の一国として加盟していましたが、満州事変による侵略行為が問題視され、結果として連盟を脱退することになります。
これは日本の国際的な孤立の始まりでした。
リットン調査団の活動
リットン調査団は、満州事変が国際社会から大きく注目される中、「本当に何が起こっているのか」を調べるために国際連盟が派遣した組織です。
イギリスのリットン卿を団長として、アメリカやフランス、ドイツなどの代表も含まれていました。
彼らは1932年に日本と満州国、中国本土を視察し、その結果を国際連盟に報告書として提出。
そこでは日本の自衛権主張を認めつつも、過剰な軍事行動があったとされ、日本を厳しく批判する内容でした。
日本が国際連盟を脱退する直接のきっかけとなったのが、このリットン報告書だったのです。
日中関係への影響
中国側の反発と抗日感情の高まり
満州事変後、中国では「日本が侵略をしている」という認識が広がり、抗日(こうにち)感情が一気に強まります。
当時、中国大陸は国民党と共産党などが複雑に対立していましたが、日本の侵略に対抗するため、次第に国民党と共産党が協力して日本に対抗するようになっていきます。
これが後に「第二次国共合作(こくきょうがっさく)」として結実し、日中戦争激化の要因となっていくのです。
満州事変が生み出した禍根
満州事変の後、日本が中国東北部を占領し、傀儡国家である満州国を建国した事実は、中国の人々に深い傷を残しました。
戦後も日中関係が円滑に進まなかった背景には、こうした歴史的経緯があります。
現在でも、日中間の歴史認識問題として、満州事変やその後の侵略が議論されることがあります。
この歴史を理解することは、現代の国際関係を考えるうえでも重要です。
満州事変を学ぶ意味
ここまで読んでくださった皆さんは、なぜ満州事変がこれほど注目されるのか、その理由がおわかりいただけたでしょうか?
最後に、満州事変から学べるポイントをまとめてみます!
歴史を繰り返さないために
満州事変は、ある意味「日本が戦争への坂道を転げ落ち始めた」最初の大きな転換点と言えます。
軍部の暴走、政治の弱体化、国際社会との対立――こういった負の連鎖が一度始まると止まらなくなるのです。
歴史を振り返って同じ失敗を繰り返さないためにも、満州事変がどのように起こり、どんな影響を与えたかを知っておくことはとても大切です。
国際協調の大切さ
満州事変をきっかけに、日本は国際連盟を脱退し孤立の道を選びました。
その後、世界各国との対立を深め、戦争へと突き進んでいったのです。
現在の国際社会では、国際連合や各種国際機関が国際協調を図り、紛争の平和的解決を目指しています。
歴史を学ぶことで、国際社会の意義や協調の大切さを再認識できるのではないでしょうか?
メディアと情報のあり方
柳条湖事件に見られるように、当時の軍は「敵の攻撃」という大義名分を作るために、自作自演の爆破事件を起こしました。
さらに国内に向けては、都合の良い情報を流し、軍部に都合の悪い報道は抑え込んでいました。
情報が偏ることで国民の世論が簡単に操られてしまう例とも言えます。
現代でも、情報操作や誤情報の拡散が社会問題となっていますね。歴史を通じて、情報を正しく読み取る目を育てることはとても重要です!
アジア地域の歴史理解
満州事変を中心とする戦前・戦中の歴史を学ぶことで、日本がアジア諸国とどのような関係を築いてきたかを知ることができます。
日中関係だけでなく、韓国や東南アジア各国との関係にも少なからず影響が及びました。
「戦争がもたらす影響」がどれほど大きいのか、平和な時代に生まれ育った私たちこそ理解し、次世代へ伝えていく必要があるのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
満州事変をわかりやすく学ぶことで、歴史を俯瞰し、今後の世界を考える視野が広がれば幸いです。