キリバスってどんな国?
まずはキリバスがどんな国なのか、ざっくりとイメージしてみましょう!
キリバスは、太平洋の中央に点在する33の珊瑚(さんご)環礁と島々から成る国です。
そのうち人が住んでいるのは21島ほどで、東西に広大な海域を抱えています。
首都はタラワ環礁にある「サウスタラワ」。
地理的にはミクロネシアの一部に分類されますが、実はポリネシア文化の影響も少しあると言われています。
古代~先住民の時代
ミクロネシア系先住民の定住
キリバスの歴史をさかのぼると、約2000年前からミクロネシア系の人々が島々に定住していたとされています!
かつては航海カヌーを巧みに操る人々が太平洋を渡り、いくつもの小さな島にたどり着きました。
彼らの文化や言語は、現在のキリバス語や伝統的な舞踊・音楽へと引き継がれています。
これら先住民は、外部からの影響がほとんどない環境で、独自の社会システムを築いていました。
各島で首長のようなリーダーが存在し、海と共に生きる生活様式が確立されていたのです。
漁労や簡易な農業を通じて島の資源を活用し、時には島同士で交流や交易も行っていたと考えられています!
伝統的な神話・信仰
キリバスの人々は、多様な神話や精霊信仰を持っていたとも言われています。
海や島の自然には精霊が宿ると信じられ、神話の世界が日常生活に密接に関わっていました。
今でも、伝統舞踊などの儀式を通じて先祖の魂や自然の恵みに感謝する文化が残っています。
こうした風習は、外から見るととても神秘的に映りますよね!
ヨーロッパ人の到来と外部勢力の影響
最初の欧米人との接触
15~16世紀以降、太平洋を横断する冒険航海や探検が盛んになり、キリバスの島々もヨーロッパ人の視野に入るようになりました。
正式に記録に残っているのは、16世紀スペインの航海者たちが近海を訪れた可能性がある、という程度ですが、実質的にキリバス地域が広く知られるようになったのは19世紀ごろからです。
当初、キリバスの島々は「ギルバート諸島」と呼ばれましたが、現地の発音から「キリバス(Gilbertの現地語読み)」となったとされています!
イギリスやアメリカの捕鯨船が太平洋を行き来するようになると、キリバス周辺にも立ち寄る船が増え、交易品として砂糖や金属製品、そして時には武器などが持ち込まれました。
19世紀の宣教師の影響
19世紀にはキリスト教の宣教師もキリバスへ渡り、島民に布教を始めました。
欧米諸国の宣教師は学校や教会を建設し、西洋的な教育や宗教観を伝えました。
これによって古来の信仰や伝統行事の一部が形を変え、または廃れていった面もありますが、教育制度が整い読み書きの技術が普及したことは、近代化の大きなきっかけとなりました。
植民地時代とギルバート&エリス諸島
イギリスの保護領化
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、太平洋地域は欧米列強の植民地や保護領となる流れに巻き込まれました!
キリバスもその波に飲み込まれ、1892年、イギリスはギルバート諸島とエリス諸島(現在のツバル)をあわせて保護領化しました。
これが「ギルバート・エリス諸島保護領」です。
この保護領時代には、イギリスによる行政システムが導入され、現地住民たちは税金の支払いなど新たな義務を課せられました。
一方で、イギリスの支配は比較的ゆるやかで、島々の伝統的な社会構造は大きくは崩されなかったとも言われています。
しかし、土地利用や海洋資源の管理は植民地支配の都合に合わせられるなど、キリバスの島々にとって大きな変化の時代となりました。
日本とのかかわり~第二次世界大戦
第二次世界大戦中、キリバスの一部は日本軍の占領下におかれたことがあります。
特にタラワ環礁は戦略的に重要な拠点として注目され、1943年には「タラワの戦い」が起こりました!
この戦いは数日間の激戦となり、多くの犠牲を出しましたが、最終的には連合軍が島を奪還しています。
この戦争体験はキリバスにとって痛ましい歴史の一幕であり、現在も島のあちこちに戦跡や慰霊碑が残っています。
戦後~独立への道
ギルバート・エリス諸島の分割
第二次世界大戦後、世界情勢が大きく変わる中で、太平洋の島々も脱植民地化の流れに乗り始めました。
ギルバート諸島とエリス諸島は地理的・文化的違いが大きいことから、イギリス当局は両者を分割する計画を進めます。
こうして1975年にエリス諸島が単独で自治を開始し、1978年にツバルという名称で独立しました。
一方のギルバート諸島は、1977年から自治政府の制度が整えられ、1979年7月12日に正式に独立を果たします!これが現在のキリバスです。
独立後には国名を「キリバス共和国(Republic of Kiribati)」と定め、旧植民地時代の名称からの脱却を図りました。
独立直後の課題
独立したばかりのキリバスは、政治や経済の基盤がまだまだ不十分でした。
多くの国民が自給自足的な生活を営み、輸出産業も限られていました。
主な収入源としては、漁業資源のライセンス料や、海外援助、そして出稼ぎ労働者からの送金などが重要な位置を占めました。
また、第二次世界大戦時の戦闘の爪痕や、植民地時代の行政システムの名残をどのように清算していくかも大きな課題となっていました。
バナバ島(オーシャン島)とリン鉱石問題
リン鉱石採掘の歴史
キリバスの歴史を語るうえで外せないのが、バナバ島(旧名:オーシャン島)です。
バナバ島は豊富なリン鉱石を埋蔵していたことで、20世紀初頭からイギリスなどによる大規模な採掘が進められました。
リン鉱石は肥料の原料として重要で、ヨーロッパやオーストラリアなどに輸出され、大きな利益を生み出していたのです。
しかし、大規模な採掘は島の環境を大きく傷つけ、島民たちは故郷を離れざるを得ませんでした。
現在、バナバ島の住民は近隣の島へ移住し、バナバ島にはごくわずかな人しか住んでいません。
これはキリバスにとって最も大きな環境的・文化的損失の一つと言えるでしょう。
裁判と補償問題
キリバス独立後、このリン鉱石採掘の歴史に関する補償問題が国際的な議論となりました。
最終的には、イギリス政府から一定の補償が支払われたものの、島の荒廃やコミュニティの分断に対する完全な回復は難しく、現在でもバナバ島の再生は進んでいません。
この問題は、植民地時代の負の遺産として、キリバスの人々の記憶に深く刻まれています。
近年のキリバス~気候変動と国際社会
地球温暖化の影響
近年、キリバスは地球温暖化による海面上昇の問題で世界的に注目されるようになりました!
標高が低い環礁や島々が多いため、海面上昇によって高潮や浸水が頻発するリスクが高まっているのです。
一部の地域では海水が淡水レンズ(地下水)に混じり、農業が難しくなったり、飲み水が不足したりと深刻な影響が出ています。
こうした危機的状況を踏まえ、キリバス政府は国際社会に向けて温暖化対策の強化を呼びかける声を上げています。
また、自国民の安全確保のため、国外への移民政策を模索する動きも一部で検討されています。
これはまさに「国土存亡の危機」と言える深刻な問題です。
国際協力と多角的なアプローチ
キリバスは小国ながら国際連合の場などで積極的に発言を行い、気候変動の影響を訴えています。
日本を含む各国との二国間協力や、地域協力機関を通じて、海岸線の保全や生活インフラの強化など多角的な取り組みが行われています。
例えば海岸線に防波堤を築いたり、新しい井戸を掘削して塩分濃度の低い水源を確保したりといった対策です!
一方、観光産業の育成にも力を入れており、美しい珊瑚環礁や伝統文化を楽しんでもらうことで外貨を得ようとしています。
ただしアクセスの難しさや施設面の課題など、まだまだハードルは多いようです。
まとめ
キリバスは、古代の先住民の時代からさまざまな国際勢力の影響を受けつつ、海とともに発展してきました。
植民地支配を経て独立を果たし、バナバ島のリン鉱石採掘や第二次世界大戦の傷跡など、多くの試練を乗り越えてきた国でもあります!
現在では気候変動による海面上昇が深刻な課題となり、その存在自体が危ぶまれる状況に直面しているのです。
それでもキリバスの人々は、伝統文化やコミュニティの絆を大切にしながら、国際社会との協力を通じて未来を拓こうとしています。
遠い太平洋の小国と思われがちですが、その歴史を知れば知るほど、私たちの世界全体がつながっていることを実感できるのではないでしょうか。