世界の歴史

イランの歴史をわかりやすく!古代ペルシャ帝国から現代イランまで徹底解説

イランという国の基本情報

はじめに、イランの現在の姿をざっくりと理解しておきましょう!

イランは中東に位置し、東側はアフガニスタンやパキスタン、北にはカスピ海を挟んでロシア方面、南にはペルシャ湾やオマーン湾に面しています。

面積は日本のおよそ4倍ほどで、人口は8000万人以上。首都はテヘランです。

国名が「イラン」となったのは1935年以降で、それまでは国際的には「ペルシャ」という呼び名が通用していました。

もっとも、国内では古くから「イラン」という呼称が用いられていたとも言われています。

この地域では古代より多様な民族や文化が入り混じり、独自の伝統を育んできました。

古代のイラン

エラム文明の誕生

イラン高原における最初期の文明としては、エラム文明が有名です!

紀元前3000年頃にはすでにイラン南西部(現在のフーゼスターン州周辺)で都市を形成し、メソポタミア文明(シュメール、アッカドなど)とも交流していました。

楔形文字にも似たエラム文字を使用し、大きな神殿や都市国家を築いたことが分かっています。

エラム文明は、後に台頭するメソポタミアの強大な王朝(アッシリアやバビロニアなど)に度重なる侵攻を受けながらも、長期間にわたって勢力を保ちました。

ただし、エラム文明に関しては未解明の部分も多く、詳細は今後の研究に期待されています。

ペルシャ帝国の誕生(アケメネス朝)

イランの歴史を語るうえで、やはり外せないのが「ペルシャ帝国」!

なかでも最初に巨大な帝国を築いたのはアケメネス朝ペルシャです。

紀元前6世紀半ば頃、キュロス2世(キュロス大王)メディア王国を滅ぼして勢力を拡大し、さらにリディアバビロニアを征服して、当時としては世界最大級の帝国を打ち立てました。

キュロス大王の後を継いだカンビュセス2世はエジプトを征服し、ダレイオス1世は帝国の領土を東西に広げ、行政制度や税制を整備。

王の道と呼ばれる幹線道路や通信網を整えるなど、長期安定を可能にする土台を築きあげたのです!

アケメネス朝ペルシャはゾロアスター教を中心に文化的にも発展し、ギリシア世界やエジプト文明、さらにはインド方面との交流も活発化しました。

アレクサンドロス大王の侵入とセレウコス朝

しかし、ペルシャ帝国の栄華は永遠には続きません。

紀元前5世紀ごろから続いたギリシアとの対立(ペルシア戦争)を経て、紀元前4世紀にはマケドニア王国のアレクサンドロス大王が東方遠征を敢行!

アケメネス朝を滅ぼし、東はインドに近い地域までその版図を広げました。

アレクサンドロス大王の死後、彼の帝国は有力将軍たちによって分割統治され、イラン一帯にはセレウコス朝が成立します。

セレウコス朝はギリシア的な統治と都市文化をイランにもたらしたものの、広大な領土を維持するのは難しく、徐々に地方勢力が台頭するように。

やがて東方のパルティア人がセレウコス朝から独立する形で新たな王朝を興します。

パルティアとササン朝

パルティア(アルサケス朝)

パルティアは紀元前3世紀半ば頃にアルサケス1世によって建国され、ローマ帝国とも渡り合うほどの強国に成長しました。

ペルシャというより「パルティア」として知られるこの時代、イラン高原は東西交易の要衝として活況を呈していました。

パルティア騎兵の強さはローマ軍を苦しめ、「パルティアン・ショット」と呼ばれる騎馬戦術が有名です!

ササン朝ペルシャ

その後、3世紀前半にアルダシール1世がパルティアを滅ぼして樹立したのがササン朝ペルシャです。

ササン朝はゾロアスター教を国教とし、中央集権的な統治体制を整えました。

特にシャープール1世はローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にするなどローマに対して強気の姿勢を示し、東西への影響力をさらに拡大!

美術や建築、宗教思想もこの時代に花開き、「ペルシャ美術」の基礎が形成されたのです。

ササン朝は東方のクシャーン朝や中央アジアの遊牧勢力とも戦いながら領土を広げましたが、7世紀にイスラム軍の侵攻を受けて最終的に滅亡します。

これ以降、イランは急速にイスラム化の道を歩むことになります。

イスラム化とその後

イスラム帝国による征服

7世紀半ば、アラビア半島から勃興したイスラム勢力がササン朝を滅ぼし、イラン高原一帯は正統カリフ時代、続いてウマイヤ朝・アッバース朝の支配下に組み込まれます。

イスラム教の急速な拡大により、イランの人々も改宗する者が増加。言語面でもペルシャ語はアラビア文字による表記を導入し、イスラム文化の影響を多分に受けつつも独自の文化を育んでいきました。

文化の融合

イスラム時代に入ったイランでしたが、元々のペルシャ文化が完全に消え去ったわけではありません!

ササン朝以前の伝統や言語的アイデンティティを保ちながらも、イスラム世界の知的遺産やアラビア語の文献を取り入れ、文芸や科学・哲学の分野で大いに繁栄しました。

特に、詩人ルーミーやフィルドゥシーの叙事詩『シャー・ナーメ』は世界文学史に残る大作です。

また、政治的にはカリフの直接統治から徐々に地方政権が独立・台頭するようになります

そのなかでイラン系のイスラム王朝がいくつも登場しました。

サーマーン朝ブワイフ朝セルジューク朝などがその代表格で、イランの地は再び独自色を取り戻していきます。

セルジューク朝とイル・ハン国

11世紀にはトルコ系のセルジューク朝がイランを中心に巨大な国家を築きました。

首都のニーシャープールやレイ(現在のテヘラン近郊)は学術と文化の一大中心地となり、この時代に活躍した数学者・天文学者のオマル・ハイヤームなどの存在は世界的に有名です!

しかし、セルジューク朝もやがて内部対立や地方勢力の独立などで衰退。

その後、13世紀前半にはモンゴル帝国の侵攻を受け、フラグ率いるモンゴル軍がアッバース朝を滅ぼし、イランにはイル・ハン国が成立しました。

イル・ハン国の時代には一時的に混乱もあったものの、モンゴル支配者たちがイスラムに改宗したのち、イラン文化とモンゴル文化の融合も進み、美術や建築様式に新風をもたらしました。

近代への道

サファヴィー朝の成立とシーア派国教化

16世紀になると、イランの歴史において重要な転換点となるサファヴィー朝が勃興します!

サファヴィー朝はイスマーイール1世が建国し、シーア派(十二イマーム派)を国教と定めた点で大変ユニーク。

これによりイランは周辺のスンニ派勢力(オスマン帝国、ウズベクなど)と対立するようになりました。

サファヴィー朝の最盛期を築いたのはアッバース1世(シャー・アッバース)で、首都をイスファハーンに移し、壮麗なモスクや宮殿を建設。

また、経済面ではシルクロード交易を活性化させ、国際貿易により繁栄を支えました。

建築や工芸では、タイル装飾やペルシャ絨毯の技術が大きく発展し、今なおイランの伝統工芸として世界中から高い評価を受けています!

カージャール朝と近代化の試み

サファヴィー朝が18世紀初頭に滅んだ後、アフシャール朝やザンド朝など短命な王朝が交代で支配権を握ります。

18世紀末に成立したのがカージャール朝で、テヘランを首都としてイラン全土を統治。

カージャール朝は欧米列強の影響を受けつつも、近代的改革に乗り出すのが遅れ、次第にイギリスやロシアの政治的・経済的圧力にさらされるようになりました。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イラン国内では立憲革命(1905~1911年)が起き、国会(マジュリス)の設置や憲法の制定など、近代化への歩みが進められました。

しかし列強の干渉や国内の保守的勢力との対立もあり、改革は思うように進まず、イランの近代化は波乱含みの展開となります。

パフラヴィー朝と近代国家への歩み

1921年、軍人だったレザー・ハーン(後のレザー・シャー・パフラヴィー)がクーデターを起こし、1925年にカージャール朝を廃してパフラヴィー朝を創始しました。

レザー・シャーは西欧を手本に軍事・行政・教育などの近代化を進めます。女性の衣服の欧風化や宗教行事の抑制など、急激な世俗化政策を推し進めたことでも知られています。

第二次世界大戦中、連合国の思惑でレザー・シャーは退位に追い込まれ、息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーが跡を継ぎました。

戦後には石油をめぐる国際的な駆け引きが激化し、モサッデク首相による石油国有化宣言(1951年)や、それに対するイギリス、アメリカの介入など、イランは再び複雑な国際情勢に巻き込まれていくのです。

現代イラン

イラン・イスラム革命

1979年に起こったイラン・イスラム革命は、近代イラン史の最大の転機といえます。

長年続いた王制に対する不満や、宗教界・知識人・学生を中心とした反体制運動が高まり、ついにパフラヴィー朝は崩壊。

ホメイニー師を中心とするイスラム法学者が主導権を握り、国家の体制そのものをイスラム法に基づく「イスラム共和国」に転換しました!

これにより、政治・社会のあらゆる側面でイスラム法(シャリーア)が強く意識されるように。

女性の服装規定やイスラム的な規範が法的に義務付けられるなど、国内外で大きな注目を集める変化が起きました。

また同年、イランの若者らがテヘランに会ったアメリカ大使館に襲撃し、職員を多数人質に取る事件が発生しました。

この事件はなんと444日も続き、イランとアメリカ間の関係は決定的に悪化しました。

イラン・イラク戦争

革命直後の混乱に乗じて、隣国イラクのサッダーム・フセイン政権が国境地帯の領土問題をきっかけにイランに侵攻!

1980年に始まったイラン・イラク戦争は、8年間にも及ぶ長期戦となり、両国とも甚大な被害を被りました。

イランにとっては革命後の体制を維持しながらの戦争であり、経済的にも人的にも国を疲弊させる大きな痛手となりました。

現在のイラン社会

戦後は復興と社会再建を目指す一方で、欧米諸国との関係は核開発疑惑や地域紛争などを背景に厳しいものとなりました。

2015年には核合意(JCPOA)が一時的に成立し、制裁緩和の兆しが見えましたが、その後アメリカ政権の交代などで状況は再び不透明に。

イラン国内では若者が人口の多くを占めており、SNSを通じた情報共有や経済的自由を求める声も根強いです。

一方、芸術や文化面では映画や音楽、文学など、イラン独自の感性が世界的な評価を得ています。

特にイラン映画は多くの国際映画祭で受賞歴を持ち、女性監督の活躍も増えています。

また、かつてのペルシャ文明を連想させる建築や工芸品、絨毯や器などは、観光客にも人気。

政治的対立とは別に、イランは世界的にも注目される文化大国としての一面を持っているのです!

まとめ:多彩な歴史が息づく国、イラン

イランの歴史は、古代ペルシャ帝国の繁栄からイスラム化、さらには近代化の模索を経てイスラム革命に至るまで、世界史の激動がそのまま詰まっています。

多民族・多宗教が行き交う要所であったため、文化や政治体制にもダイナミックな変遷が見られます。

古代遺跡や歴史的建造物が数多く残っており、イラン文学の重厚さや芸術の奥深さは、今なお人々を魅了し続けているのです!

初めてイランの歴史に触れると、「ペルシャ」と「イラン」の呼称の変化に驚いたり、「イスラム革命」が思った以上に社会体制を大きく転換したことに驚いたりするかもしれません。

イランは政治面での注目度が高い一方で、その背景には何千年にもわたる豊かな伝統と文化が脈打っています。

ぜひ、今回の記事をきっかけに、古代から現代に至るイランの魅力をさらに深堀りしてみてくださいね!

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