日本の歴史

守護大名とは?初学者でもわかる成り立ち・特徴・有名大名の解説

守護大名とは? その始まりと特徴

守護の起源

鎌倉幕府による守護の設置

鎌倉時代、源頼朝が全国の治安維持や反乱の防止のために置いた役職が「守護」でした。

彼らはもともと、各国(今の都道府県のような単位)で治安維持や警察的役割を担う存在として機能していました。

守護の権限

守護は当初、軍事・警察権を中心に持ち、徴税権や政治的支配まで幅広くはありませんでした。

しかし時代が進むにつれ、守護が独自に力を付けていくケースが現れはじめます。

守護と守護大名の違い

守護大名の誕生

室町時代に入ると、守護の中でも経済力や政治力を握り、自らの領地を支配する大名化が進行していきます。

こうして守護がより強大な権力を持った結果、「守護大名」と呼ばれるようになるのです。

守護大名の特徴

  • 領国(配下の地域)の支配権を強固にするために、家臣団や軍事力を整えた
  • 幕府との関係を活用して、名声や正当性を確立した
  • 国内政治だけでなく、貿易や文化活動にも関与した例もある

つまり、守護は本来の行政・警察的役割だけを担う存在でしたが、やがて領国支配の主人公へと成長し、守護大名という独自の政治権力を確立していったのです!

守護大名の役割と権力構造

守護大名は単に武力を握っていただけでなく、さまざまな角度から国内を治める存在でした。

中央政権(室町幕府)との関係

室町幕府の成立

鎌倉幕府が滅亡した後、足利尊氏が建てたのが室町幕府です。

尊氏は建武の新政(後醍醐天皇による政治改革)から離脱し、自身が征夷大将軍となることで幕府の権威を確立しました。

守護大名への権限付与

室町幕府は全国に守護を配置し、その中で優秀な者や功績のあった者に権限を多く与えました。

また、任命を通じて幕府は全国を統制しようとしたわけですが、結果的には地方の守護が権力を握りすぎるケースも出てきます。

守護大名の立場

室町幕府の権威のもとで守護大名となった彼らは、中央政権からの委任という形で正当性を得る一方、時には幕府の命令に反する行動をとり、独立性を高めていくこともありました。

領国経営の実態

年貢の徴収権

守護大名は領国に住む農民や商人から年貢や税を取り立てることで経済力を高めました。

これにより軍事力や政治力を維持・拡大できたのです!

家臣団の組織化

有力武士たちを家臣として従え、軍役を課すことで自らの軍事力を形成しました。

守護大名同士の対立や、下克上を防ぐためにも、家臣団の結束は欠かせませんでした。

商業と自治都市の保護

守護大名が都市(惣村や自治都市)と結びつき、商人や寺社から財政的支援を得る例もありました。

特に港や交通の要衝を押さえることで、関所からの通行税など多方面から財源を確保することができました。

知っておきたい有名な守護大名たち

ここでは具体的な例として、歴史で有名な守護大名をいくつか紹介します。

どの大名もそれぞれ独自の歴史や特色がありますので、興味が湧いたらぜひ詳しく調べてみてください!

細川氏

細川氏は阿波(現在の徳島県)や讃岐(香川県)など四国や九州北部を中心に勢力を伸ばしていました。

室町幕府の管領(幕政のトップ)にも就任するほどの有力守護大名です。

細川京兆家(細川勝元など)は京都の文化人を支援し、茶の湯や連歌などの文化に深く関与したことで知られています。

山名氏

山名氏は最盛期に全国66カ国のうち11カ国の守護職を握り、「六分の一殿」と呼ばれるほど大きな権勢を誇りました。

特に山名宗全(やまな そうぜん)応仁の乱で西軍の大将を務めたことで有名です。

応仁の乱後の混乱で、山名氏は多くの所領を失い、戦国大名としては大きく勢力を維持できませんでした。

大内氏

周防・長門(現在の山口県)などを中心に力を持った大内氏は、博多や瀬戸内海の海上交通を押さえ、明(中国)との貿易(勘合貿易)で莫大な利益を得ました!

また、大内氏は都の貴族や文化人を招き寄せ、独自の文化を花開かせました。

特に大内義隆は文化面に積極的で、当時の大内氏の繁栄を象徴する存在でしたが、陶隆房(後の陶晴賢)の反乱によって滅亡へと向かいます。

伊達氏

現在の宮城県を中心に勢力を広げた伊達氏は、室町時代から守護大名として存在感を持っていました。

伊達政宗の戦国大名としてのイメージが強いですが、実は室町時代からの歴史があるのです。

室町後期から戦国時代にかけて、伊達氏は南北朝の混乱や他の豪族との戦いを経て、力を蓄えました。

後に有名な独眼竜・伊達政宗へと続く歴史的つながりがここにあります。

守護大名の時代背景

守護大名が力を持つに至ったのは、同時代の政治的・社会的背景と大きく関係しています!

この章では南北朝の動乱や室町幕府の成立過程、そして戦国時代への移り変わりをざっくり解説します。

南北朝の動乱

14世紀中ごろ、後醍醐天皇の南朝と、足利尊氏によって擁立された北朝が対立し、朝廷が二つに分かれました。

この混乱の中で各地の武士たちは、どちらにつくか選択を迫られたのです。

南北朝の動乱により幕府の統制力が弱まると、地方の守護たちは自らの領国を防衛し、独立色を強めていきました。

これが守護大名としての権力集中の大きなきっかけとなります。

室町幕府の成立と限界

足利尊氏は京都に幕府を構え、北朝を正統な朝廷とみなすことで自らの地位を正当化しました。

尊氏をはじめとする足利将軍家は、各地の守護大名に支えられて幕政を運営していきます。

しかし、室町幕府は鎌倉幕府に比べて政治基盤が安定せず、守護大名の力が相対的に強くなっていきました。

応仁の乱以降は実質的に幕府の力は弱体化し、守護大名が事実上独自の領国経営をする流れが加速します。

戦国時代への移行

1467年に始まる応仁の乱は、足利義政の後継問題を発端に起こった大規模な内乱です。

東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)に分かれて争い、京都を焼け野原にしてしまいました。

応仁の乱を境に各地で権力の再編が進み、守護大名の中でも力が弱まる家や、国人(在地の小領主)から下克上を受ける大名も出てきます。

こうした混乱の中で生まれた新興勢力が戦国大名として頭角を現すようになりました。

守護大名の衰退と戦国大名への転換

室町時代の中心的存在だった守護大名も、戦国時代に入るころにはその地位に変化が訪れます。

なぜ守護大名は衰退したのか、そしてどのように戦国大名へと転換していったのかを見ていきましょう。

下克上の台頭

守護大名が領国支配を強化する中で、在地の国人衆や豪族たちも力を蓄えていました

。ときには、守護大名の家臣が反旗を翻し、主家を乗っ取ることも起こります。

こうして守護大名から下克上で勢力を奪い取った者が、新たな戦国大名になっていくケースもありました!

守護大名の終焉

応仁の乱以降、室町幕府は形骸化し、守護大名に対して任命権をふるうほどの力を失いました。

下克上や領国支配の再編によって生き残った大名たち(戦国大名)は、それぞれが独自の法律や経済政策を打ち出していきます。

やがて織田信長や豊臣秀吉、徳川家康へとつながる戦国の大名の時代が本格化するのです

まとめ

守護大名は室町幕府との微妙なパワーバランスの上に成り立ち、時代の流れとともに自立化・大名化を深めました。

やがて下克上の風潮が強まる中で、守護大名の多くが滅びるか、あるいは戦国大名として再編されていきます。

歴史を振り返ると、その時代の常識や制度がいかに揺れ動き、変化していったのかがはっきり見えてきます。

守護大名の歩みもまた、一つの大きなドラマです。ぜひ今回の記事を入り口に、奥深い中世・戦国史の世界を楽しんでみてください!

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