以下の記事では、ジョージアの歴史について、初めて学ぶ方にもわかりやすいように解説していきます!
西アジアと東ヨーロッパの結節点に位置するジョージアは、多彩な文化と複雑な歴史を育んできました。
伝説や英雄の物語が色濃く残り、異なる帝国からの影響や支配を受けつつも独自のアイデンティティを確立してきた国です。
この記事では、重要な出来事を時代ごとに追いながら、ジョージアの「歴史」の魅力をたっぷりお伝えします!
古代のジョージア~伝説のコルキス王国
ジョージアの「歴史」を語るうえで欠かせないのが、紀元前の古代文明です。
黒海東岸に位置するコルキス(Colchis)という地名は、ギリシア神話の「アルゴ船の冒険」や「金羊毛伝説」に登場する場所としても知られています!
この金羊毛伝説によってヨーロッパの人々に広く知られるようになったコルキスは、ジョージア地域の一部とされています。
さらに、内陸部にはイベリア(Iberia)と呼ばれる王国もありました。
このイベリアは、決してスペインのイベリア半島とは関係がないので混同しないでくださいね!
ジョージアにおけるイベリア王国は紀元前4世紀頃から存在し、地域全体の政治的基盤を形成していきました。
こうした古代王国の存在が、ジョージアの長い歴史の幕開けといえます。
キリスト教の受容と民族アイデンティティの確立
ジョージアが本格的に歴史の表舞台に立ち始めるのは、キリスト教の受容が大きなきっかけでした。
4世紀頃、当時のイベリア王国でキリスト教が国教として採用され、ジョージア人の民族的アイデンティティを固める重要な一歩となります。
ジョージア正教会は、この時代に独自の教会組織として発展し、後世にわたり人々の精神的な支柱となりました。
聖ニノ(Saint Nino)という女性宣教師が伝えたとされるキリスト教は、多くの伝説や奇跡とともにジョージア人たちに受け入れられたといわれています。
これにより、キリスト教信仰が政治や文化の基盤になり、ジョージアは周辺の異なる宗教・文化をもつ勢力と緊張をはらみつつも、自らのアイデンティティを築き上げていきました!
中世~黄金時代とモンゴルの侵入
タマル女王の黄金時代
ジョージア「歴史」の中でも特に輝かしいのが、12世紀末から13世紀初頭にかけてのタマル女王(Queen Tamar)の時代です。
タマル女王は女性として初めてジョージア王位についた人物でありながら、類まれなる政治手腕を発揮しました。
外交にも長けており、ジョージアはこの時代に最盛期を迎えたのです!
当時のジョージアは、黒海とカスピ海、さらにはコーカサス山脈を囲む広い範囲で大きな影響力をもつ王国でした。
文化面でも黄金時代を迎え、多くの詩や建築物が生み出されました。
タマル女王の治世は、現在でもジョージア人にとって誇り高き歴史の一部として語り継がれています。
モンゴル帝国の侵入と混乱
しかし、タマル女王の後を追うように13世紀にはモンゴル帝国が侵入し、ジョージア王国は大きな打撃を受けます。
強力な軍事力を誇るモンゴル軍の支配下では、王国は複数の小国家に分裂するなど、政治的にも経済的にも混乱期に突入しました。
その後、モンゴルの影響力が衰えると、今度はオスマン帝国やペルシア(サファヴィー朝・アフシャール朝など)の勢力がジョージアに触手を伸ばし、幾度となく攻防が繰り広げられていきます。
こうした度重なる外部からの干渉が、ジョージアの歴史を複雑にし、多様な文化要素を取り込むきっかけにもなっていきました。
近世~ロシアとの関係と帝国支配
ジョージアが近世に入ると、オスマン帝国やペルシアの支配を脱しようとする動きが活発化します。
特に18世紀末から19世紀初頭にかけて、イベリア東部のカルトリやカヘティなどの王国は、強力なロシア帝国に保護を求める形で接近しました。
その結果、1801年には東ジョージア(カルトリ・カヘティ)がロシア帝国に併合され、西ジョージアもその後順次ロシアの支配下に入ります。
こうしてジョージアはロシア帝国の一部となり、伝統的な文化や政治制度が大きく変容していくのです。
ロシアの保護は、オスマン帝国やペルシアの軍事的脅威からの防衛策として一定の効果を発揮した一方で、ロシア化政策が進むにつれ民族のアイデンティティや宗教面での軋轢も深まりました。
独立への道~短い自由とソビエト連邦時代
1918年の独立宣言
ロシア帝国が第一次世界大戦の混乱や革命によって揺らぎ始めた1917年頃、ジョージアにも民族独立の機運が高まります。
そして1918年、ジョージアはついに独立を宣言しました!
しかし、当時のヨーロッパや周辺地域は大戦後の混乱期であったため、ジョージアの独立は長続きしませんでした。
ソビエト連邦への編入
1921年にソビエト・ロシアの赤軍が侵攻し、ジョージアはソビエト連邦の一共和国に組み込まれます。
これによって再び独立は失われ、人々は厳しい共産主義体制のもとで生活を送ることになりました。
ジョージアは「グルジア共和国」の名称で呼ばれ、経済的にはソ連構成国の一部としてインフラ整備などの恩恵も受けましたが、民族や宗教の自由は大きく制限されることになります。
一方で、ソ連内部でもジョージア出身の政治家として有名なのが、ヨシフ・スターリン(本名はジョセフ・ジュガシヴィリ)です。
スターリンはソビエト連邦を長らく統治した独裁者として知られ、そのルーツがジョージアにあることも人々の関心を集めてきました。
現代~独立回復と変革の歩み
1991年のソ連崩壊と独立回復
ソビエト連邦が1991年に崩壊すると、ジョージアは再び独立を宣言し、長い闘争の末にようやく真の主権を取り戻しました!
しかし、独立直後から南オセチアやアブハジアなどの分離主義地域との紛争が起こり、国内の情勢は安定には程遠い状態でした。
民族問題や経済的な混乱も相まって、新生ジョージアは多くの課題を抱えることになります。
バラ革命(ローズ革命)と西欧化政策
その後、2003年には政権交代を求める大規模な抗議運動が起こり、いわゆる「バラ革命(ローズ革命)」によってミヘイル・サアカシュヴィリ大統領が誕生しました。
サアカシュヴィリ政権は行政や経済の改革を大胆に進め、腐敗一掃やインフラ整備に力を入れます。
さらに西欧諸国との関係を深め、NATOやEUへの加盟を視野に入れた積極的な外交政策を展開しました。
ただし、ロシアとは紛争状態に陥ることもあり、2008年の南オセチア紛争では軍事衝突が発生しました。
この衝突を機に、ジョージアとロシアの関係はさらに緊張を帯びるようになります。
現在でもロシアとの国境問題や分離地域の扱いは大きな課題として残っています。
文化遺産と観光~歴史を感じる場所
ジョージアはその歴史の深さと多様性ゆえに、訪れるべき文化遺産が数多く存在します!
首都トビリシは、古くから東西交易の要衝として栄えた街で、今もなお伝統的な建築物や石畳の通りが残り、エキゾチックな雰囲気を放ちます。
中世の要塞や聖堂、グルジア正教の教会など、いたるところに歴史の痕跡が感じられます。
さらに、ジョージア正教会の象徴でもあるムツヘタ(Mtskheta)は、古都として世界遺産に登録されています。
スヴェティツホヴェリ大聖堂やジャリスフヴィリ修道院など、壮麗な宗教建築が立ち並び、ジョージア人の精神文化を深く感じることができますよ!
ワイン発祥の地ともいわれるジョージアでは、8000年ものワイン醸造の歴史があるとされ、現地の伝統的な製法で作られるクヴェヴリワインは世界的にも人気が高まっています。
こうした文化的背景も、ジョージアの「歴史」が単なる古い出来事ではなく、現代の暮らしに根付いていることを示しています。
まとめ~ジョージアの歴史が私たちに教えてくれるもの
ここまでジョージアの歴史をざっと見てきましたが、いかがでしたか?
複数の帝国による支配と干渉を受けながらも、独自の文化やアイデンティティを失わずに発展してきたジョージアの姿は、とてもたくましいものに映ります。
現在でも国名表記をめぐり「ジョージア」「グルジア」「サカルトヴェロ」とさまざまな呼び方がありますが、それはまさにこの地域が多彩な影響を吸収しながら成長してきた証拠ともいえるでしょう!
独立後も紛争や政治的な混乱を経験してきたジョージアですが、近年は観光地としての注目度も高まっています。
雄大な自然と奥深い歴史、そして温かいホスピタリティは、一度訪れたら忘れられない体験を提供してくれるはずです。
ぜひ一度、ジョージアに足を運んで、その豊かな文化と歴史を肌で感じてみてください!