世界の歴史

エチオピアの歴史を簡単に解説!どんな国か必ずわかる!

エチオピアの基本情報と地理的背景

まずはエチオピアの歴史に入る前に、地理や文化の面でざっくりとイメージしていただきたいポイントを整理しましょう。

位置

アフリカ大陸の北東部、いわゆる“アフリカの角”と呼ばれる地域に位置しています。

北はエリトリア、東はジブチとソマリア、南はケニア、西はスーダンや南スーダンに接しています。

首都

アディスアベバ。標高が約2,300メートルにもなる高地にある都市です。

言語

公用語はアムハラ語ですが、多民族国家のためオロモ語やティグリニャ語など、さまざまな言語が存在します。

宗教

キリスト教(エチオピア正教)、イスラム教、伝統的宗教などが混在。

特にエチオピア正教は非常に歴史が古く、国の文化に深く根付いています。

気候・地形

エチオピア高原が大きな部分を占めるため、アフリカの中でも比較的涼しく、地域によっては雨量も豊富です。

このように、多様性に富んだエチオピアは、その地理と伝統が歴史の中で複雑に絡み合い、ほかのアフリカ諸国とは一線を画した道を歩んできました。

これから、時代の流れに沿ってエチオピアの歴史を簡単に紐解いていきましょう!

古代エチオピアのはじまり:神話と伝承

エチオピアの歴史のはじまりは、とても古い時代までさかのぼるといわれています。

よく知られているのが、旧約聖書に登場するソロモン王とシバの女王(マケダ)にまつわる伝説です。

紀元前10世紀頃、イスラエルのソロモン王のもとを訪れたシバの女王マケダが、息子をもうけたとする伝説があります。

その息子がメネリク1世であり、エチオピア皇帝の祖とされているのです。

エチオピアの古代文献であるケブラ・ナガストに、この伝説が詳しく記されています。

イスラエルから連れて帰った契約の箱をアクスムに安置したという話は、エチオピアのアイデンティティに深く結びついています。

もちろん、これらは神話や伝承の域を出ない部分もありますが、エチオピア人にとっては長い歴史のベースとなる重要なストーリーとなっています。

アクスム王国の繁栄とキリスト教の受容(紀元前後~10世紀頃)

エチオピア史を語る上で欠かせないのが、アクスム王国(Aksum)の存在です。

これは紀元前後から10世紀頃まで繁栄した強大な王国で、現在のエチオピア北部、エリトリア一帯を中心に栄えていました。

貿易国家としての発展

アクスム王国は、紅海やインド洋、さらには地中海世界との交易で大きく成長しました。

金や象牙、香料などを輸出する一方で、ローマ帝国やインド、中東との文化的交流が盛んだったことが記録に残っています。

ここからも、エチオピアが国際的なつながりを早くから築いていたことがうかがえます!

キリスト教の正式受容

4世紀頃のエザナ王の時代に、アクスム王国はキリスト教を国教として受け入れました。

アフリカ大陸でキリスト教が公的に根付いた最初期の例として、現在でもエチオピア正教は国内で大きな位置を占めています。

エチオピア正教の特徴は、伝統的なユダヤ教的要素とも深く融合していることです。食事規定や割礼など、独特の習慣が守られています。

アクスム遺跡の見どころ

アクスムの象徴といえば、巨大な石碑(オベリスク)や宮殿の遺跡。

これらの遺産は、アフリカ大陸における古代文明の力強さを物語っています。

UNESCO世界遺産にも登録されており、世界中から観光客が訪れる人気スポットとなっています。

    アクスム王国の衰退は、イスラム勢力の台頭や交易ルートの変化などさまざまな要因が重なったとされていますが、エチオピアの民族としての誇りはここで確立されたといっても過言ではありません。

    中世エチオピア:ザグウェ朝とラリベラの教会群(10世紀~13世紀)

    アクスム王国が衰退した後、エチオピア北西部ではザグウェ朝(Zagwe dynasty)が権力を握りました(10世紀後半~13世紀)。

    この王朝もまた、キリスト教を国の中心に据えた政権として知られています。

    ザグウェ朝の王の一人、ラリベラ王が建設したとされる11のラリベラの岩窟教会群は、現在でもエチオピアの代表的な世界遺産!

    巨大な岩盤をくり抜いて造られた教会は「新しいエルサレム」と呼ばれ、エチオピア正教徒たちの巡礼地となっています。

    ザグウェ朝の後には、再び「ソロモン朝(Solomonic dynasty)」が復活し、伝説上のメネリク1世につながる血筋が正統な王権を得たとされています。

    ここからも、エチオピアの王朝がいかにソロモン王とシバの女王の伝承を大切にしてきたかが分かりますよね。


    ソロモン朝の栄光と外部勢力との交錯(13世紀~19世紀初頭)

    ザグウェ朝に続いてソロモン朝が復活すると、エチオピアは再び「キリスト教国家」としてのカラーを強めていきます。

    しかし、同時に周辺のイスラム国家やヨーロッパ諸国との関係も大きく変化していきました。

    アムハラ人の台頭

    ソロモン朝では、アムハラ人が政治・軍事の中心を担うようになりました。

    現在でも公用語であるアムハラ語が広まったのも、王朝の支配体制と深い関係があります。

    外部勢力との関係

    ポルトガルとの接触

    16世紀頃、オスマン帝国の影響を受けたイスラム勢力がエチオピアを脅かすと、キリスト教国であるポルトガルが支援に乗り出しました。

    火器の導入など、近代的な軍事技術を取り込むきっかけにもなりました。

    ヨーロッパ列強の思惑

    大航海時代以降、ヨーロッパ諸国はアフリカ大陸の各地に進出し始めました。

    エチオピアは内陸国であったこと、地形的にも守りが堅かったことから、他のアフリカ諸国と比べて比較的独立を保ちやすい状況にありました。

    テワドロス帝(19世紀中頃)

    19世紀になると、エチオピアの内部は複数の領主が割拠し、統一が進まず混乱状態でした。

    その中で台頭したのがテワドロス帝(テオドロス2世)です。

    近代化を目指して軍事改革や中央集権化を進めますが、最終的にはイギリスとの対立から敗れ、悲劇的な最期を遂げました。

    近代エチオピアの形成:メネリク2世とアドワの戦い(19世紀後半~20世紀初頭)

    テワドロス帝の後、皇帝となったのがヨハンネス4世、そしてその後を継いだのがメネリク2世です。

    彼の治世こそが、近代エチオピアの基礎を築いたといえます!

    メネリク2世はエチオピア高原だけでなく、南方や東方へも支配を広げ、エチオピアの版図を大きく拡大しました。

    また、首都をアディスアベバに定め、近代化政策を積極的に実施しました。

    道路や鉄道の整備、欧米諸国との外交など、エチオピアが近代国家として歩み始めるきっかけとなったのです。

    イタリアがエチオピアを植民地化しようと企図した際、メネリク2世率いるエチオピア軍がアドワの戦いで決定的勝利を収めました。

    アフリカの国がヨーロッパ列強に対して勝利を収めた珍しい例として、現在でもエチオピア国民が誇りに思う歴史的事件です。

      これらの成功によって、エチオピアはアフリカの中で数少ない独立を維持し続ける国家として国際的にも認知されることになりました。

      ハイレ・セラシエ帝と国際社会への歩み(20世紀前半)

      メネリク2世の後継者たちを経て、1930年に即位したのがハイレ・セラシエ帝(ラス・タファリ)です。

      彼はエチオピアの近代化をさらに進め、世界的にも大きな注目を集めます。

      社会改革と国際連盟への加盟

      ハイレ・セラシエ帝は奴隷制廃止や教育制度の改革、近代的な憲法の制定などを行い、国際連盟にも加盟。

      エチオピアが世界へと飛躍する時代を切り開きました。

      イタリアの侵攻と亡命生活

      しかし、1935年にイタリアのムッソリーニ政権が再びエチオピア侵攻を開始。

      ハイレ・セラシエ帝は国際連盟で支援を訴えましたが思うように得られず、一時イギリスに亡命します。

      その間、エチオピアはイタリアに占領され、国民は過酷な植民地支配に苦しむことになります。

      第二次世界大戦と解放

      第二次世界大戦が進む中、イギリス軍の協力を得てイタリア軍を排除し、1941年にハイレ・セラシエ帝はエチオピアへ復帰しました。

      再び独立を取り戻し、国際舞台へ復帰していくのです。

      革命と社会主義政権:デュルグ政権(1974年~1991年)

      ハイレ・セラシエ帝は独立を守り抜いた英雄的存在として称えられましたが、長期政権にはやがて批判や不満も高まります。

      特に1970年代に入ると、深刻な干ばつや貧困が国を覆い、多くの国民が困窮しました。

      1974年、軍部を中心とするグループ「デュルグ(Derg)」がクーデターを起こし、ハイレ・セラシエ帝を廃位。

      これにより、長らく続いたエチオピア帝政は幕を下ろしました。

      メンギスツ・ハイレ・マリアムを中心とするデュルグ政権は、マルクス・レーニン主義を掲げ、農地や企業の国有化など社会主義的政策を推進。

      一方で、反体制派や少数民族に対する大規模な弾圧が行われ、国内は混乱を極めました。

      1970年代後半には赤色テロ(Red Terror)ともよばれる、政権に抵抗する勢力への激しい弾圧が行われ、数多くの犠牲者が出ました。

      デュルグ政権の強権的な支配に反発し、各地で反政府勢力が武装闘争を展開。

      さらに、大規模な干ばつによる飢饉が重なり、1980年代半ばには世界を震撼させる悲惨な状況が報道されました。

      海外からの人道支援が注がれたことも、この頃です。

      現代エチオピア:連邦制と多民族国家への道(1991年~現在)

      長期にわたった内戦と独裁体制を経て、1991年にエリトリア人民解放戦線(EPLF)やティグレ人民解放戦線(TPLF)を中心とする反政府勢力が首都を制圧し、メンギスツ政権は崩壊しました。

      ここからエチオピアは大きな転換期を迎えます!

      1995年、新憲法が制定され「エチオピア連邦民主共和国」が誕生。

      これにより、エチオピアは国内の多様な民族を尊重し、連邦制を採る国家へと生まれ変わりました。

      長らくエチオピア領だったエリトリアは、住民投票を経て1993年に独立。

      エチオピアはついに海への出口を失い、完全な内陸国となったのです。独立後も両国は国境紛争などで対立が続きました。

      2000年代に入り、エチオピアはインフラ整備や農業改革などによって高い経済成長率を記録。

      首都アディスアベバにも高層ビルが建ち並び、地下鉄まで整備されるなど、急激な近代化が進んでいます。

      しかし、少数民族問題や政治的自由の制限、人権問題など解決すべき課題も少なくありません。


        エチオピアの歴史を簡単に振り返ってみよう!

        ここまで見てきたように、エチオピアの歴史は実に奥深く、波乱に満ちています。ざっくりまとめると、以下のような流れになります。

        1. 太古・神話時代: ソロモン王とシバの女王の伝説。
        2. アクスム王国の繁栄(紀元前後~10世紀頃): 貿易大国として栄え、キリスト教を国教化。
        3. 中世(ザグウェ朝~ソロモン朝復活): ラリベラの岩窟教会など、キリスト教文化が花開く。
        4. 近代化への歩み(19世紀): テワドロス帝、メネリク2世による統一と改革。アドワの戦いで欧州の植民地支配を退ける。
        5. ハイレ・セラシエ帝(1930~1974年): 近代化と国際社会への進出。しかしイタリアの侵攻も経験。
        6. 社会主義政権デュルグ(1974~1991年): 皇帝廃位、弾圧と内戦、飢饉という苦難の時代。
        7. 現代の連邦制(1991年~): 民主化と経済成長を目指すも、民族問題や政治的課題も依然として山積。

        このように、一度も完全な植民地支配を受けなかったエチオピアは、独自の道を歩みながら歴史を積み重ねてきました!

        だからこそ、アフリカでは珍しく古代からの遺産と国家としての誇りが根強く残り、世界に唯一無二の魅力を発信し続けているのです。

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