エリトリアとは?
エリトリアはアフリカ大陸に位置しており、北にスーダン、西にエチオピア、南東にジブチと国境を接し、東は紅海に面しています。
首都はアスマラ。人口はおよそ600万人程度とされ、多様な民族が暮らしているのが特徴です。
公用語として定められた言語はないものの、事実上の行政言語はティグリニャ語が中心になります。
また、アラビア語や英語、その他エリトリアに暮らす多民族の言語も使用されています。
この国名「エリトリア」は、ギリシャ語で紅海を意味する “Erythra Thalassa” に由来しており、紅海沿岸に位置する地域であることに深く関係しています。
エリトリアの歴史は、周辺国との政治的・文化的な影響を受けながら展開されてきました。
特にエチオピアとの間では、長いあいだ紛争や民族的対立が続いてきたことでも知られています。
古代から中世にかけてのエリトリア
エリトリアの歴史をひもとくうえで欠かせないのが、アクスム王国(Aksum)の存在です!
紀元1世紀頃から7世紀頃にかけて現在のエリトリアやエチオピア北部を中心に栄えたこの王国は、紅海交易で大きな繁栄を遂げました。
アクスム王国は、その時代としては珍しく硬貨を鋳造したり、独自の文字体系であるゲエズ文字を発展させたりして、高度な文明を築いていたのです。
アクスム王国は4世紀頃にキリスト教を国教として採用。
これは、現在のエリトリアやエチオピア地域がキリスト教徒の多いエリアとなる礎を築いたともいえます。
紅海を挟んだアラビア半島や地中海世界とのつながりが深く、貿易都市としても発展しました。
その後、アクスム王国の勢力が衰退し、地域は複数の小王国や地方政権に分裂していきます。
中世以降は周辺地域との交流や対立が重なりながら、多様な政治勢力がこの地域で勢力を競い合いました。
オスマン帝国とエジプトの影響
16世紀になると、アクスム王国の名残が完全に衰退していたエリトリア地域にオスマン帝国が勢力を伸ばします!
紅海の覇権を握ろうとしたオスマン帝国は、現在のエリトリア沿岸部を支配下に置き、港町や交易路を管理しました。
しかし、内陸部にまではオスマンの支配が十分に及ぶことはありませんでした。
その後、19世紀に入ると、オスマン帝国の衰えとともにエジプトがこの地域に影響力を行使。
特にスーダンとのつながりからエジプトが紅海沿岸地域を支配下に置き、貿易ルートを握ろうとしました。
しかし、ヨーロッパ列強がアフリカ大陸へ進出を強めるなかで、エジプトの影響力が持続することは難しくなっていきます。
やがてイタリアをはじめとする欧州列強がこの地域に興味を示し始めるのです。
イタリア植民地時代
19世紀末、エリトリア地域はイタリアの植民地支配を受けるようになります!
1869年、イタリアの船会社がアッサブ港を購入したことをきっかけに、イタリアは紅海の重要性を認識し、エリトリア沿岸部の開発に乗り出しました。
そして1890年、イタリアは当時のエチオピア帝国(ショア王国など複数の王国が統合された状態)と条約を結び、エリトリアを正式にイタリア領と宣言します。
イタリアによる植民地支配はインフラ整備、特に鉄道や道路網の建設が進められた点が特徴です。
首都アスマラの都市計画もイタリア人技師によって行われ、現在に残る美しいイタリア風建築が形成されました。
一方で、植民地支配であることには変わりなく、現地の人々は労働搾取や差別、文化的抑圧を受けることも少なくありませんでした。
第二次世界大戦が始まると、エリトリアは北アフリカ戦線の重要拠点となり、1941年にはイギリス軍がイタリア軍を破ってこの地域を占領。
イタリアの植民地支配はここで終わりを迎えます。
イギリス管理時代と国連決議
第二次世界大戦後、イタリアが敗戦国となったことで、エリトリアは戦勝国であるイギリスの軍政下に入りました。
1941年から1952年までの約11年間、イギリスはエリトリアを一時的に管理する立場となったのです。
しかし、国際社会ではエリトリアの将来の扱いをめぐって議論が進みました。
エチオピアは、自国の歴史的権利を主張してエリトリアの編入を求め、一方でエリトリア住民の一部は独立か自治を望みました。
そこで、国際連合(当時は国際連合が設立され間もない時期)が調停に乗り出し、最終的に1950年にエチオピアとの連邦制を認める決議を行います。
そして1952年、エリトリアはエチオピアと連邦を組むことになりました。
名目上はエチオピアとは対等の連邦関係でしたが、実態はエチオピアの影響力が強く、エリトリアの自治権は次第に形骸化していきます。
エチオピアとの統合と独立への道
エチオピアとの連邦関係が結ばれたものの、1950年代後半からはエチオピア政府によるエリトリアの自治権の制限が強まりました。
エリトリア人の言語や政治活動の自由が抑圧されていくなか、1950年代末から1960年代初頭にかけて、エリトリアの完全独立を目指す抵抗運動が活発化していきます。
1958年にはエリトリア労働者連盟による抗議活動が起こり、1961年にはエリトリア解放戦線(ELF)が結成されました。
このELFは、エリトリア独立を求めて武装闘争に突入します。
一方、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、1962年にエリトリア議会を解散し、一方的にエリトリアをエチオピアに併合!
これにより、エリトリア人の自治への希望は大きく後退しますが、独立を求める動きはむしろ激しさを増すこととなりました。
1970年代になると、ELFから分派する形でエリトリア人民解放戦線(EPLF)が結成され、内部分裂を経ながらも独立運動を継続。
エチオピア国内でも1974年に軍事クーデターが起こり、皇帝ハイレ・セラシエが廃位されるなど政局は混乱。
エリトリアでは、ELFとEPLFがエチオピア政府軍との戦闘を継続し、多大な犠牲を払いつつも、段階的にエリトリアの支配域を拡大していきました。
エリトリア独立後の歩み
1991年、エチオピアの軍事政権(メンギスツ政権)が崩壊すると、エリトリア人民解放戦線(EPLF)は首都アスマラを制圧し、事実上エリトリアの独立を果たしました。
その後、1993年には国民投票が行われ、圧倒的多数の賛成票によりエリトリアは正式に独立!
こうして、数十年にも及ぶ長い紛争の末に、エリトリアはようやく主権国家となったのです。
しかし、独立後もエリトリアとエチオピアの関係は順風満帆ではありませんでした。
1998年から2000年にかけて、両国は国境をめぐる紛争に突入し、多くの犠牲者が出ました。
戦争は一応の停戦にこぎつけましたが、国境問題はその後も長らく根深い対立を引きずることになります。
2018年にエチオピアで政権交代が起きると、ようやく両国間で和平に向けた動きが加速。
国境が再開通し、人々の往来が再び可能となるなど、和解への道を歩み始めました。
エリトリア国内では、政府の独裁体制や徴兵制の長期化などの問題が深刻であると指摘されています。
国連や国際人権団体からは、人権状況の改善を求める声が上がっています。
一方で、長い紛争を経てやっと独立を勝ち取ったエリトリアの人々の誇りや団結心は非常に強く、自国の未来を切り開こうとする姿勢を示し続けています。
エリトリアの文化と未来への展望
エリトリアは、多民族・多言語社会であるがゆえに文化も実に多彩!
ティグリニャ語を中心にアムハラ語、アラビア語、クシティック語族の言語などが話され、宗教もキリスト教(エリトリア正教会やカトリック教会など)やイスラム教が混在しています。
食文化や音楽・舞踊も多様で、特にエリトリアのコーヒー文化や「インジェラ」と呼ばれる発酵パンはお隣のエチオピアと共通点が多いことで知られています。
政治的には課題が多いエリトリアですが、地理的には紅海に面しており貿易拠点としての将来性が期待されています。
海洋資源の活用や観光資源の開発など、潜在的な可能性は大きいと言われています。
さらに、最近ではエチオピアとの和平を契機に、交通網やインフラ整備を進める動きが見られ、地域協力と経済発展への期待が高まっています。