チェコという国名を聞いて、プラハの美しい街並みやチェコビールを思い浮かべる方も多いかもしれません。
でも、実際にチェコの歴史がどのように紡がれてきたかは、あまり知られていないのではないでしょうか。
この記事ではわかりやすいチェコの歴史をキーワードに、チェコの歴史を初学者の方でも理解しやすいようにまとめてみました!
長い歴史の流れをざっくりと追うことで、チェコという国への愛着が深まるかもしれませんよ。
チェコという地域のはじまり
現在のチェコの国土は、中央ヨーロッパのほぼ中央に位置します。
日本ではチェコと一言で呼ばれますが、かつては「ベーメン」「モラヴィア」「シレジア」の3つの地域に分かれていました。
とくにベーメンは英語でボヘミア(Bohemia)とも呼ばれ、古くから文化・政治の中心地として発展してきました。
この地域が歴史上に姿を現し始めるのは9世紀頃。
当時は「大モラヴィア帝国(グレート・モラヴィア)」が存在していて、現在のチェコのみならず、スロバキアやハンガリーの一部にも勢力を広げていました。
大モラヴィア帝国はスラヴ民族の連合国家でしたが、やがて崩壊し、ベーメンを中心にしたボヘミア王国へと移り変わっていきます。
ベーメン(ボヘミア)王国と神聖ローマ帝国
9世紀末から10世紀にかけて、大モラヴィア帝国が弱体化すると、ボヘミア公国(後のボヘミア王国)が力を持ち始めます。
特にプシェミスル朝という王朝が11世紀から14世紀にかけてボヘミアを治め、ベーメン地方を繁栄へ導きました。
ボヘミア王国は神聖ローマ帝国の皇帝選出に大きな影響を持つなど、ヨーロッパの国際政治の舞台でかなり注目される存在だったのです!
14世紀にはカレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)が登場し、プラハを神聖ローマ帝国の首都にまで押し上げます。
この時代、プラハはヨーロッパでも指折りの都市となり、カレル大学やカレル橋など歴史的建造物も多く築かれました。
街並みの美しさが今でも人々を惹きつけるのは、こうした華やかな中世の文化と歴史が深く関係しているのですね。
宗教改革の先駆け!ヤン・フスの活動
チェコの歴史を語るうえで外せない人物が、15世紀初頭に活躍した神学者・説教師のヤン・フスです。
ヤン・フスは教会の腐敗を批判し、聖書をチェコ語に翻訳して人々に信仰を広めようと試みました。
この動きは、後のルターやカルヴァンといった宗教改革にも影響を与えたとされており、「宗教改革の先駆け」と評されることもあるほど重要な存在です。
しかしながら、ヤン・フスの思想は当時の権力者やローマ・カトリック教会にとっては都合が悪く、その結果、コンスタンツ公会議で異端とされ火刑に処されてしまいます。
この処刑をきっかけに、チェコの地では「フス戦争」と呼ばれる長い内乱が起こり、ボヘミア王国は混乱期に突入するのです。
このフス戦争の影響で、チェコ人の宗教意識や民族意識は一層高まっていきました。
ハプスブルク家の支配下へ
やがて16世紀末から17世紀にかけて、チェコは強大なハプスブルク家の統治を受けるようになります。
オーストリア・ハンガリー帝国といった巨大国家の一部として組み込まれることで、民族独立の機運は抑圧されてしまいました。
こうした支配体制のもとでチェコ人は、自らの言語や文化を守るために苦しい道のりを歩むことになります。
17世紀に起きた「三十年戦争」では、ボヘミアで起こった反ハプスブルクの動きが大きなきっかけとなり、ヨーロッパ全体を巻き込む大戦乱に発展しました。
戦後、チェコではさらにハプスブルク家の支配が強化され、カトリック化政策やドイツ語の公用語化などが推し進められます。
チェコ語やチェコ民族としての誇りを守ろうとする動きは、いったん地下に潜らざるを得ませんでした。
チェコ民族復興運動とオーストリア=ハンガリー二重帝国
18世紀から19世紀になると、ヨーロッパ各地で「民族主義」の動きが高まります。
チェコでもナショナル・ルネサンス(民族復興運動)と呼ばれる運動が起こり、チェコ語の研究や文学の振興が盛んになっていきます。
有名な言語学者や歴史学者が次々と登場し、チェコ人のアイデンティティを再確認する機運が高まっていったのです。
この頃のチェコは依然としてオーストリア帝国の一部でしたが、やがて1867年には「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が成立します。
しかし、チェコはその中で完全な自治を得ることはできず、チェコ人の民族自決の思いはさらに強くなっていきました。
こうした不満は20世紀に入るまでくすぶり続け、ついに第一次世界大戦後の世界再編につながっていきます。
第一次世界大戦後のチェコスロバキア誕生
1914年に勃発した第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊の道をたどり、終戦後の1918年に「チェコスロバキア共和国」が誕生します。
スロバキアと共同で新国家を樹立したことで、チェコ人にとっては念願の独立を達成したのです!
初代大統領となったトマーシュ・マサリクは、民主主義を重んじるリベラルな政治家で、欧州のなかでも比較的安定した立憲民主制を築きあげます。
1920年代に入ると、工業が盛んになり、中欧地域での経済大国としても名を馳せるようになりました。
チェコスロバキアは当時、ヨーロッパ随一の産業水準を持つ国として評価されていたのです。
第二次世界大戦とドイツの占領
しかし、1930年代後半になると、ナチス・ドイツの勢力が拡大。
チェコスロバキアはドイツ語系住民が多く住むスデーテン地方をめぐって国際問題となり、1938年のミュンヘン協定で譲歩を余儀なくされます。
結果としてスデーテン地方はドイツに割譲され、チェコスロバキアは弱体化の一途をたどりました。
そして最終的にドイツが侵攻し、ベーメン・モラヴィア保護領と呼ばれる事実上の占領状態となってしまいます。
ドイツの支配下で、チェコスロバキアの人々は大きな苦しみを味わいました。
ユダヤ人虐殺をはじめとする人権侵害が横行し、抵抗運動も大きな犠牲を強いられます。
第二次世界大戦中は、ロンドンにチェコスロバキア亡命政府が置かれ、戦後の独立再建を目指して活動していました。
戦後~共産主義時代(1948~1989年)
第二次世界大戦が終わると、チェコスロバキアはソ連の強い影響下に置かれます。
1948年には共産党政権が樹立され、一党独裁の体制が整えられていきました。
自由主義的な政策は抑え込まれ、経済や社会のあり方もソ連型の計画経済へと組み込まれます。
1960年代には「プラハの春」と呼ばれる自由化の試みが行われます。
指導者アレクサンデル・ドゥプチェクが「人間の顔をした社会主義」を目指し、政治や社会に改革をもたらそうと試みました。
しかし1968年、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍の介入で、自由化の動きは武力で制圧されます。
これにより、チェコスロバキアは再び厳しい共産党統制下へと逆戻りしてしまうのです。
ビロード革命とチェコスロバキアの分離
しかし1980年代後半になると、ソ連自体がペレストロイカ(改革)の波に揺れ始めます。
そんな中でチェコスロバキアでも民主化を求める声が高まり、1989年に起こったのが「ビロード革命(ヴェルヴェット・レボリューション)」です。
ほとんど流血のない平和的な革命によって、共産党政権が終焉を迎えました!
ビロード革命の後、劇作家としても有名なヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に就任。
民主的な政治体制が整備され、自由な社会が実現していきます。
ただ、チェコ人とスロバキア人との間で経済や民族的な考え方の違いが顕在化し、最終的に1993年1月1日、チェコスロバキアは平和的に解体され、「チェコ共和国(チェコ)」と「スロバキア共和国」に分離独立しました。
現在のチェコ共和国へ
チェコ共和国として新たに歩み始めたチェコは、ヨーロッパ統合の流れの中で2004年にはEU(欧州連合)に加盟し、経済や観光、文化面での交流を広げています。
また、NATO(北大西洋条約機構)にも加盟しており、欧州の安全保障にも大きく貢献しています。
観光地としてのチェコは、プラハを中心とした歴史的建造物や美しい街並み、そしてチェコビールや伝統的な料理が世界中の人々を魅了しています。
世界遺産に登録されているチェスキー・クルムロフなど、地方都市にも見応えのあるスポットが満載です。
さらに、チェコは文化や芸術の分野でも大きな存在感を放っています。
作曲家のスメタナやドヴォルザーク、文学ではカフカなど、多くの芸術家を輩出してきたのも、長い歴史の中でさまざまな文化が交錯したことが背景にあるのです。
まとめ
チェコの歴史は、9世紀の大モラヴィア帝国から始まり、ボヘミア王国としての繁栄、ヤン・フスの宗教改革の先駆け、大国ハプスブルクの支配下での民族復興、チェコスロバキア共和国の成立、ナチス・ドイツによる占領、戦後の共産党政権、そしてビロード革命を経て、現在のチェコ共和国へと続いてきました。
一見すると波乱万丈ですが、これらの出来事すべてが、チェコ人の誇りや文化の形成に深く結びついています。
私たちがチェコの首都プラハを歩き、きらびやかな建築や美しい音楽に心を奪われる背景には、この何世紀にもわたる歴史の積み重ねがあるのです!
ぜひ、この素晴らしい国の歴史をさらに深く知り、訪れたときにはその魅力を存分に味わってくださいね。