コートジボワールってどんな国?
コートジボワールは、西アフリカにある国のひとつです。
南には大西洋が広がっていて、地中海から見るとサハラ砂漠の向こう側に位置しています。
植民地時代にはフランスの影響を強く受けたため、公用語はフランス語ですが、様々な民族と多言語が共存しているのも大きな特徴!
カカオやコーヒーの生産が盛んなことでも知られています。
「象牙海岸」という意味をもつコートジボワール(Côte d’Ivoire)は、日本では「コートジボワール」と表記されますが、英語圏では「Ivory Coast」と呼ばれることもあります。
近年は経済成長が著しく、首都のヤムスクロや最大都市のアビジャンは活気にあふれる都市として注目を集めています。
古代からの民族の多様性
コートジボワールの歴史をたどる上でまず重要なのが、多様な民族の存在です!
現在の国境が確立する前、まだヨーロッパ人がやって来る以前から、この地域では複数の王国や部族が独自のコミュニティをつくっていました。
代表的な民族としては、マンデ系、グル系、クワ系、そしてセヌフォなどが知られています。
古代の伝承や口承史料によれば、13~15世紀ごろには内陸のマリ帝国やソンガイ帝国などの影響を受けながら、交易や農耕によって地域コミュニティが発展していきました。
宗教は精霊信仰やイスラームなどが混在し、社会や文化の発展に大きく寄与していたと考えられています。
ヨーロッパ人の来航と象牙交易
15世紀頃になると、大西洋沿岸にポルトガル船が姿を現すようになります。
彼らはアフリカ各地の交易品を求めて進出してきたのですが、中でも「象牙」は貴重な貿易品のひとつでした!
その後、フランスやイギリスなどの列強も進出し、象牙や奴隷貿易を通じて関与を強めていきます。
海岸沿いの先住民たちは、ヨーロッパ商人と取引を行いながら、徐々に西洋の技術や文化を取り入れていきます。
一方で、奴隷貿易は地域社会に深刻な影響を及ぼし、人口減少や部族間の対立の激化など、多くの問題を引き起こしました。
こうした混乱の中で、フランスの進出が一気に本格化していきます。
フランス植民地時代のはじまり
19世紀後半になると、いわゆる「アフリカ分割」が進んでいきます。
ヨーロッパ諸国がアフリカ各地を占領・植民地化する時代です。
コートジボワール地域は1880年代から1900年代にかけてフランスの勢力下に入り、1893年に正式にフランス植民地「コートジボワール」が設置されました。
フランスは、当時まだ各地に残っていた王国や部族組織を制圧しながら、行政やインフラの整備を進めていきます。
特にココアやコーヒーといった商品作物のプランテーションが拡大され、労働力として現地住民が動員されました。
フランス語が広まるきっかけも、まさにこの植民地政策の時期からなのです!
植民地時代の暮らしと抵抗運動
フランスによる支配体制が進む中、コートジボワールの人々の暮らしは大きく変化しました。
従来の農耕スタイルが大規模プランテーションに切り替わったり、キリスト教の布教が進んだりと、ヨーロッパの価値観が広がっていったのです。
一方で、各地では植民地支配への抵抗運動も起こりました。
特に1930年代以降、知識人や労働組合を中心に独立を求める声が高まりました。
アフリカ各国で独立の機運が高まる中で、コートジボワールにおいても政治結社や自治を求める運動が活発化していきます。
その先頭に立った人物のひとりが、後に大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニ(Félix Houphouët-Boigny)です。
独立への道のり
第二次世界大戦後、フランスも植民地政策を見直さざるをえなくなり、少しずつ自治権の拡大や政治の自由化へとかじを切ります。
そんな中、ウフェ=ボワニはフランス国会議員として活躍し、フランス植民地内での権利拡大や独立運動の主導的役割を担います。
コートジボワールは、1958年にフランス共同体の一員となった後、1960年8月7日に正式に独立を果たしました!
独立宣言は、先住民にとって長い間の夢であった独自の政治と自由を獲得する大きな一歩となりました。
ウフェ=ボワニ政権と「安定の時代」
独立後の初代大統領となったウフェ=ボワニは、1960年から30年以上にわたりコートジボワールを統治しました。
彼の長期政権は、一党独裁の傾向が強かったとはいえ、政治的に安定し経済発展を遂げた時期として評価されています。
特にコーヒーやカカオの輸出による農業収入が増え、首都ヤムスクロへの遷都やインフラ整備などが進められました。
一方で、農業や都市開発の急速な拡大は、環境破壊や格差拡大、地域間の利害対立を招く面もありました。
それでも、アビジャンは「西アフリカのパリ」と呼ばれるほど近代的な都市に成長し、文化的にも豊かな時代だったのは確かです。
政権交代と政治的混乱
ウフェ=ボワニの死後、1993年にアンリ・コナン・ベディエが大統領となりましたが、経済の停滞や政治の混乱が深刻化し、1999年にはクーデターが発生。
軍政時代を経て2000年に民政移管が行われ、ローレン・バグボが新大統領に就任しました。
しかし、その後も民族対立や選挙結果をめぐる紛争が絶えず、内戦状態に陥ることとなります。
2002年には北部の反政府勢力による武装蜂起をきっかけに国が分断され、停戦協定や和平交渉が度々行われましたが、なかなか安定には至りませんでした。
内戦と国際社会の介入
コートジボワールの内戦は、根深い民族問題や政治権力争い、選挙制度の不備など、さまざまな要因が絡み合っていました!
国際社会も積極的に介入し、国連平和維持活動や地域機構の仲介などを通じて停戦や選挙の実施を支援しました。
一時はアビジャンを含む南部と北部が事実上分裂した状態が続きましたが、徐々に和平プロセスが進行。
2010年の大統領選挙を機に再び混乱が生じるものの、最終的にはアラサン・ワタラ(Alassane Ouattara)が当選したと国際的に認定され、バグボ前大統領は退陣を余儀なくされました。
現代コートジボワールの歩み
2011年にワタラ大統領が正式に就任して以降、コートジボワールは内戦からの復興や政治的・経済的安定に向けて努力を続けています。
国際社会も大きく支援しており、インフラ整備や経済開発、和解プロセスの進展が進められました。
現在は内戦の傷跡が徐々に癒されつつあり、政治的にも安定を取り戻し、カカオ生産・輸出を中心にアフリカ有数の経済成長を実現するまでになっています。
一方で、依然として民族・地域間の格差、若者の失業率、教育の整備など課題も多く残されています。
しかし、若者を中心に力強く立ち上がろうという動きもあり、活気のある国へと再生している印象を受けます。
まとめ
ここまで、コートジボワールの歴史について、古代からの民族の歩みやフランス植民地時代、独立とその後の混乱や復興までをざっくりと解説してきました。
内戦の記憶はまだ新しく、人々の心にも深い傷を残していますが、その一方で逞しく立ち上がる姿が印象的です!
カカオ生産大国として知られ、フランス語圏の文化が根付いたコートジボワールは、今もなお歴史の真っ只中を歩み続けています。
国全体が目指す「和解と発展」という目標に向けて、教育やインフラ、文化の発展など多面的な取り組みが進められているのです。
これからも、西アフリカを代表する国の一つとして、コートジボワールは多くの人々の注目を集めていくことでしょう。