世界の歴史

カーボベルデの歴史とは?アフリカ島国の歩みをやさしく解説!

カーボベルデってどこにある?どんな国?

カーボベルデ(Cabo Verde)は、西アフリカセネガルの沖合約500kmに位置する島国です。

地図を見ると、大西洋上にぽつんと浮かんだ小さな群島のように見えます。

火山活動によって形成された島が多く、それぞれ独自の景観を持っています。

  • 公用語:ポルトガル語(さらに、クレオール語も日常的に使われる)
  • 首都:プライア(サンティアゴ島)
  • 主な島:サンティアゴ島、サントアンタン島、サル島、ボア・ヴィスタ島など

もともと、カーボベルデは世界の交易ルートの要所としても重要でした。

そのため、歴史の中でさまざまな国や文化の影響を受け、それが芸術、音楽、料理などに色濃く表れています!

サウダージ(郷愁)という言葉がぴったりの、どこか切ないメロディのモルナ音楽などは代表的な文化のひとつです。

カーボベルデの歴史をざっくりと!

まずはカーボベルデの大まかな歴史の流れを知っておきましょう。カーボベルデの歴史は、大きく以下のように分類できます。

  1. 発見とポルトガルの入植(15世紀後半~)
  2. 奴隷貿易の拠点としての繁栄(15世紀末~19世紀)
  3. 植民地支配と近代化の進展(19世紀~20世紀前半)
  4. 独立運動と新生国家誕生(20世紀半ば~1975年)
  5. 独立後の課題と成長(1975年~現在)

ここからは、この流れに沿ってもう少し詳しく見ていきましょう!

カーボベルデの発見とポルトガルの入植

カーボベルデは、15世紀半ばまで無人の島だったとされています。

火山が作り出した荒涼とした土地と、場所によっては自然資源が限られていたため、アフリカ大陸の近くにありながら定住者はほとんどいなかったのです。

ポルトガル人による最初の発見

15世紀中頃、大航海時代に活躍していたポルトガルの探検家たちがアフリカ西海岸沿いの航路を開拓する中で、カーボベルデ諸島を発見しました。

15世紀後半には、ポルトガル王室の命を受けた船団が次々と島に上陸し、最終的にポルトガル領であると宣言します。

これがカーボベルデの歴史の大きな転換点となりました!

入植と最初の定住

ポルトガル人の入植者は、サンティアゴ島やフォゴ島など、当時見つかった島々に集落を築き始めます。

火山灰土壌が農業に向いている地域もあったため、サトウキビや綿花などのプランテーションが開発され、労働力としては本国から連れてこられた使用人や、アフリカ大陸から連行された奴隷が多く使われるようになりました。

こうして、カーボベルデはヨーロッパとアフリカを結ぶ中継地としての役割を担い始めます。

海洋交易や港町の整備が進められ、ポルトガル人の文化とアフリカの文化が混ざり合う独特の社会が少しずつ形成されていきました。

奴隷貿易の時代

カーボベルデは地理的にアフリカ大陸から近く、また大西洋の航路の中継地としても最適でした。

15世紀末から19世紀にかけてアフリカ各地で盛んだった大西洋奴隷貿易の拠点として大きく発展します。

奴隷貿易拠点としての繁栄

カーボベルデ各島の港町は、アフリカ大陸から連行された奴隷を新世界(主に南北アメリカ大陸)へ移送する際のステーションとして機能していました。

こうした貿易によって、島々は商人や貿易関係者でにぎわい、ヨーロッパ、アフリカ、そしてアメリカ大陸の文化や物資が行き交う場所になります。

しかし、この繁栄の裏側では、多くのアフリカ人が奴隷として過酷な運命を辿りました。

カーボベルデの土着文化の形成には、アフリカ大陸から移送されてきた人々の音楽や言語も大きく寄与しているといわれています。

現在、ポルトガル語とクレオール語が共に使われるのも、この歴史的背景が関係しているのです。

貿易が変わるとき

19世紀に入り、ヨーロッパ各国の間で奴隷貿易に対する批判が高まり始め、奴隷制度の廃止や制限の動きが広がっていきます。

これに伴い、カーボベルデの貿易拠点としての重要性は少しずつ低下し、経済的には厳しい状況に陥っていきました。

干ばつなどの自然災害も重なり、多くの住民が食糧不足や貧困に苦しむことになったのです。

植民地支配と近代化

奴隷貿易が衰退しても、カーボベルデは依然としてポルトガルの植民地であり続けました。

19世紀後半から20世紀前半にかけては、港湾施設やインフラの整備が一定程度進められ、船舶の補給地として機能していましたが、開発は十分とはいえず、住民の多くは貧しい生活を余儀なくされていました。

近代教育の普及

近代的な学校制度や教会を中心とした教育機関がつくられることで、一部のカーボベルデ人はポルトガル語の読み書きを学び、知識人として成長する人も現れます。

彼らの中には、のちに独立運動をリードする人物も多く含まれていました。

文化的にもヨーロッパとアフリカの要素が混じりあい、音楽や文学の面で豊かな土壌が育っていきます!

独立運動と新生国家の誕生

ポルトガル植民地の変革期

20世紀半ばになると、アフリカ各地で植民地支配に対する抵抗運動が盛んになっていきました。

ポルトガル領だったアンゴラやモザンビーク、ギニアビサウなどでも独立運動が起こり、その動きはカーボベルデにも波及します。

特にギニアビサウとカーボベルデの反植民地主義運動は深い結びつきがあり、共同で独立を目指す動きが展開されました。

アミルカル・カブラルの影響

独立運動を語る上で欠かせないのが、アミルカル・カブラルという革命家の存在です。

彼はギニアビサウとカーボベルデの両国が連携して植民地支配からの解放を目指す組織を設立し、カーボベルデの知識人たちも協力して反植民地闘争を進めました。

長い戦いの末、1974年にポルトガルでカーネーション革命が起き、政権が変わるとともに植民地政策は急速に転換されます。

独立の実現!

1975年7月5日、カーボベルデは正式に独立を果たします!

当初はギニアビサウとの統合も模索されましたが、政権内の対立や方針の違いにより1980年以降は完全に分離。

カーボベルデは単独国家として歩み始めることとなりました。

独立後の課題と成長

一党制から多党制へ

独立後しばらくは、カーボベルデは一党制の社会主義的な政治体制をとっていましたが、世界的な社会主義ブロックの崩壊や国内での民主化要求が高まる中、1990年代初頭には複数政党制を認めるようになります。

これによりカーボベルデはアフリカでも比較的安定した民主主義を確立していきました。

経済発展への模索

カーボベルデは農業や鉱業など大規模な産業がほとんどないため、経済構造は脆弱でした。

しかし、独立後は外国からの援助を活用するとともに、観光業やサービス産業に力を入れ始めます

特にサル島やボア・ヴィスタ島といったビーチリゾートが欧州からの観光客に人気となり、GDPに大きく貢献するようになりました。

また、離島間のインフラ整備や教育の充実にも注力し、島々をつなぐ航空路線や港湾設備の改良を進めています。

こうした取り組みにより、アフリカの中では比較的政治的・経済的に安定した国として知られるようになってきました!

現在の社会と課題

一方で、島国特有の問題もあります。水資源や食料の多くを輸入に頼っており、自然災害(干ばつや火山噴火)のリスクも高いです。

また、若者の失業率も依然として高めで、海外移住を希望する人も少なくありません。

それでも近年は、IT分野や音楽文化を活かしたソフトパワーの強化など、新たな可能性を模索する動きが活発化しています。

国際社会の支援や、カーボベルデ人ディアスポラによる送金などが、国の経済と社会を支える重要な柱になっているのです。

まとめ

カーボベルデの歴史を振り返ってみると、アフリカ大陸とヨーロッパの影響が混ざり合いながら、奴隷貿易の拠点として一時代を築き、苦しい植民地支配を経て独立を果たした国であることがわかります。

火山島という地理的条件のなかで、貿易拠点としての役割を担いながら、文化的には多様な要素を取り込み、独自の伝統を育んできました。

独立後も、厳しい環境下での経済成長や政治体制の変遷を経験しながら、現在では比較的安定した民主主義と穏やかな社会を維持していることは注目に値します!

そして、音楽や芸術の世界では世界的な評価を受けるなど、文化面でも強い存在感を放ち続けています。

興味を持ったら、ぜひ次のステップとして音楽や料理、あるいは実際に島々を訪れてみると、カーボベルデの歴史に息づく多彩な魅力に触れられることでしょう!

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