世界の歴史

アンゴラの歴史をわかりやすく解説!ポルトガル支配から内戦復興まで

アンゴラとは?

アンゴラはアフリカ大陸の南西部に位置し、大西洋に面している国です。

首都はルアンダで、ポルトガル語が公用語として使われています。

面積はおよそ125万平方キロメートルと広大で、人口は約3,000万人ほど

アフリカの中でも資源に恵まれ、特に石油とダイヤモンドが豊富なことで知られています。

アンゴラの歴史を紐解くと、15世紀後半から始まるポルトガルの影響、そして長年にわたる植民地支配が大きなカギを握っています。

また、独立後には内戦に苦しんだ過去もあるため、政治や経済の面で大きな変遷を経てきました。

とはいえ、近年は復興に向けた動きが進みつつあり、文化的にも非常に多彩な魅力を持った国として注目を集めています!

古代~中世:部族社会と王国の誕生

アンゴラの大地には、古くからバントゥー系民族が定住していたと考えられています。

バントゥー系民族というのはアフリカの広い範囲に分布する人々で、言語や文化の類似点を持つグループの総称です。

アンゴラでも、さまざまなバントゥー系の部族が、それぞれ独立した小さな共同体や王国を形成していました。

コンゴ王国の成立

中世において有名なのが、現在のアンゴラ北部やコンゴ民主共和国にまたがって存在したコンゴ王国です。

14世紀頃に成立したとされ、強力な政治力と軍事力を誇っていました。

周辺にはンドンゴ王国ルバ王国なども存在し、各王国は交易や同盟関係を結びながら地域での影響力を競っていたのです。

当時は主に塩や鉄、布などを交換する形での交易が盛んでした。

各地の部族社会や王国は、互いに交易で繋がりを深めつつ、独自の文化や社会制度を発展させていきます。

その中で統治者は精霊や祖先の加護を受ける存在として信じられ、宗教や儀礼を通じた権威も大切にされていました。

ポルトガルの到来と植民地時代

アンゴラの運命を大きく変えたのが、15世紀後半以降に活発化したヨーロッパの探検活動です!

ポルトガル人はインド洋への航路を開拓する過程で、1480年代にアンゴラ沿岸へと到達しました。

やがて彼らはアフリカの沿岸部を次々と植民地化していき、アンゴラでも港湾を拠点に支配を広げていきます。

ルアンダ建設

1575年、ポルトガルは現在の首都であるルアンダを拠点として築き始めます。

ここから植民地支配が本格的に進み、先住民から土地や資源を奪う動きが加速していきました。

しかし当初は内陸部まで完全に支配することは難しかったため、ポルトガルは沿岸部を中心に拠点を構え、内陸への影響力を少しずつ拡大させていったのです。

この植民地支配の過程で、コンゴ王国やンドンゴ王国など在来の王国との衝突や同盟が複雑に絡み合いました。

ときには王国同士がポルトガルと手を組み、競合する王国を押さえつけることもありました。

権力関係が揺れ動く中で、やがて支配の手はより広範囲に及んでいくことになります。

奴隷貿易とその影響

アンゴラの歴史を語る上で外せないのが、奴隷貿易です。

ポルトガルはアンゴラなど西アフリカ沿岸部で大量の奴隷を集め、ブラジルなどのプランテーションへ送り出していました。

16世紀から19世紀にかけての大西洋奴隷貿易では、総数で数百万人規模のアフリカ人が売買され、その多くがアンゴラから連れて行かれたとも言われています。

この奴隷貿易はアンゴラ社会に大きな打撃を与えました。

多くの人々が国外へ連れ去られたことにより、コミュニティが崩壊し、人口減少だけでなく、文化や技術の継承にも深刻な影響を及ぼしたのです。

さらに奴隷狩りを巡って部族間の戦闘が激化し、地域全体の治安も悪化していきました。

ポルトガルの植民地支配は、こうした混乱を背景にさらに強固なものへと変化していきます。


近代化の影と植民地支配の強化

19世紀後半からヨーロッパ各国はアフリカ分割をさらに進め、列強が競うようにアフリカ各地を植民地化していきました。

その中でポルトガルもアンゴラの内陸部支配を本格化させていきます。

奴隷貿易は19世紀半ばに禁止されましたが、代わりにゴムや象牙の取引など、新たな資源搾取が進められました

ポルトガル本国は、植民地を自国の利益のために統治・管理する方針をとり、アンゴラでは強制労働や農作物の一方的な収奪が横行しました。

また、キリスト教の布教に伴いヨーロッパ式の教育や文化も一部持ち込まれましたが、先住民に対しては差別的な政策を続け、アンゴラ人の自主性や権利はほとんど認められなかったのです。

アンゴラの人々はこうした状況に不満を募らせながらも、武力による抵抗を試みる部族や運動が各地で展開されていきました。

しかしポルトガル政府の軍事的な対応や、先住民同士の対立もあって、なかなか大規模な独立運動へと発展することは難しい時代が続きます。

独立への道のり

第二次世界大戦後、世界的に植民地支配への批判が高まり、アフリカ各国で独立運動が活発化します。

アンゴラでも1950年代頃から、民族主義的なリーダーたちが組織を結成し、ポルトガル支配に対抗していきました。

主な独立運動組織

  • MPLA(アンゴラ解放人民運動)
  • FNLA(アンゴラ解放民族戦線)
  • UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)

これらの組織は、それぞれ支持基盤や思想が異なっており、単純に一致団結してポルトガルと戦うというより、互いの利害や路線の違いがありました。

それでも独立のためにポルトガル軍を相手にゲリラ戦を展開し、多くの犠牲を出しながらも徐々に影響力を拡大させていったのです。

ポルトガル本国の混乱

1974年にポルトガル本国で「カーネーション革命」が起こり、独裁政権が崩壊。

これをきっかけに植民地の独立が一気に進められました。

アンゴラも独立を勝ち取り、1975年11月11日に正式に独立国家となったのです!

しかし、この独立を巡ってさまざまな問題が浮上することになります。

独立後の内戦と復興

アンゴラが独立した直後に大きな混乱が起こった最大の要因は、先ほど述べた複数の独立運動組織の対立です。

MPLAが首都ルアンダを抑えて政権を握った一方、FNLAやUNITAは別の勢力として独自の政治的立場を求め、アンゴラ国内での主導権争いが激化しました。

この内戦は、冷戦下の国際情勢とも深く結びついていました。

MPLAはソ連やキューバの支援を受け、UNITAはアメリカや南アフリカから支援を受けるという構図になり、長期間にわたる激しい戦闘が続きます。

結果的に数十万人規模の死者と大量の難民が出る、非常に厳しい状況に陥りました。

内戦の終結と和平協定

アンゴラ内戦は断続的な停戦と再開を繰り返しながら続きましたが、ついに2002年にUNITAの指導者ジョナス・サヴィンビが死亡し、和平への道が切り開かれます。

その後、和平協定が締結され、長く苦しかった内戦はようやく終息へと向かったのです。

和平以降、アンゴラは政治的安定を取り戻しながら復興を目指してきました。

特に石油などの資源開発によって経済的な成長が見られる一方、格差や汚職などの課題もまだ山積しています。

それでも多くのアンゴラ国民にとって、やっと訪れた平和の時代は希望と期待に満ちた新たなスタートだったのです!

現代のアンゴラ

内戦の終結から約20年がたち、アンゴラは国際社会への積極的な参加やインフラ整備などを進めています。

高層ビルが立ち並ぶ首都ルアンダは、経済成長の象徴とも言える近代的な景観を見せるようになりました。

また、教育の普及や医療の整備にも力を入れ、国内の生活水準を引き上げる取り組みが続けられています。

一方で、依然として農村部の貧困や都市部の失業率の高さなどが課題として残っているのも事実です。

石油収入に依存する経済構造からの脱却や、復興期に広がった汚職問題への対策も急務となっています。

アンゴラ政府は多角的な産業育成を目指しながら、国民の生活水準を向上させるための改革を進めているところです。

アンゴラの文化面では、音楽やダンス、ファッションなどが国民の生活に深く根付いています。

特にアンゴラ発祥のダンス音楽として世界的に有名になりつつある「クドゥーロ」は、若者を中心に大人気!

独特のリズムとエネルギッシュな動きで、国際的にも注目を集めています。

まとめ

アンゴラの歴史は、先住民の王国の時代からポルトガルの植民地支配、そして長く続いた内戦と復興と、激動の連続でした。

世界史の大きな流れの中で翻弄されつつも、アンゴラの人々はその都度、たくましく生き抜いてきたのです。

近年では和平を経て復興に向かい、国際的なビジネスの舞台でも注目されるようになりました。

もちろん課題はまだ多く残っていますが、アンゴラの歴史を知ることで、アフリカ大陸の多彩な背景や文化をより深く理解できるのではないでしょうか。

これまでの歴史的経緯を踏まえ、アンゴラは国際社会の中で新たなステージへと歩み始めています。

外から見ると「資源大国」というイメージが先行しがちですが、その背後には人々の苦難や希望、独特の文化的な魅力が詰まっています!

ぜひ、アンゴラの歴史をきっかけに、アフリカの他の国々にも目を向けてみてください。

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