ベトナムの始まり:伝説の時代から古代へ
ベトナム史をざっくり話すとき、まずは伝説の「雄王(フン・ヴオン)」時代に触れないわけにはいきません!
ベトナム最初の王朝とも呼ばれる「文郎(ヴァン・ラング)国」を統治したとされる雄王は、紀元前に存在したと伝わっています。
ただしこれはあくまで神話や伝説の域で、厳密な歴史記録というよりは「ベトナムの建国神話」として語り継がれてきたものです。
とはいえ、この伝説がベトナム人のアイデンティティの源泉になっているのも事実です。
お祭りなどでも先祖として雄王を祀るなど、現在でも国民の心に深く根付いています。
ベトナムに興味を持つなら、この雄王伝説を知っておくと会話のネタになること間違いなし!
中国支配と独立への道
ベトナムの歴史を語る上で外せないのが、中国からの影響です。
紀元前2世紀ごろからベトナム北部は断続的に中国の支配を受けるようになり、唐や漢などの各王朝の管轄下に置かれました。
この約1000年にわたる中国支配期は、ベトナムが独自の文化を育む一方で中国文化を深く取り入れる時期でもありました。
文字や儒教などは中国から伝えられ、ベトナムの伝統文化を形成する大きな要素となっていきます。
しかし、もちろん支配に対する抵抗も激しく、歴史には多くの反乱や独立運動が記録されています。
有名なのは1世紀に起こった徴姉妹(チュン・チャック、チュン・ニ)による反乱や、10世紀に呉權(ゴ・クエン)が中国の南漢軍を破ったエピソード。
特に呉權の勝利は、ベトナムが再び自主独立を果たすきっかけとなりました。
10世紀以降、ベトナムは中国から独立し、本格的に独自の王朝を築いていきます。
李朝・陳朝とモンゴルの襲来
10世紀後半から11世紀にかけて成立したのが李朝(りちょう、リー朝)です。
李朝は首都を昇龍(タンロン、現在のハノイ)に置き、仏教を重んじつつ国家体制を整えました。
寺院や仏像の造立が盛んに行われ、今日のベトナムでも仏教が広く信仰される土台となったともいわれています。
次いで13世紀に成立した陳朝(ちんちょう、チャーン朝)の時代には、モンゴル帝国からの侵攻を3度にわたって退けた歴史があります!
これはベトナム史の中でも大きな誇りであり、陳興道(チャン・フン・ダオ)という将軍が指揮をとったとされています。
中国大陸を席巻していたモンゴル軍が、なぜベトナムを攻略できなかったのかは長く議論の対象ですが、ジャングルや湿地帯などの地理条件も大きかったようです。
加えて、現地の気候に慣れないモンゴル軍には、ベトナム側のゲリラ戦や海上戦術が有効だったともいわれています。
大越(ダイベト)時代と南進
ベトナムは歴史上、「大越(ダイベト)」という国名で長く呼ばれていました。
この大越”の時代には王朝が次々と移り変わり、陳朝の後に黎朝(レ朝)が成立。
その後も鄭氏(チン氏)と阮氏(グエン氏)の2大勢力が並立する時代が続くなど、国内は決して安定していたわけではありません。
しかし、いずれの王朝も南方へ領土を広げる「南進政策」を推し進めていたことが特徴的です。
もともとベトナムは北部、現在のハノイ周辺を中心に形成されてきましたが、南下してチャンパ王国を統合し、さらにメコンデルタ地域へと版図を拡大していきます。
この南下の過程で、多様な民族や文化がベトナム社会に組み込まれていきました。
現在、ベトナム中部や南部で見られる独特の文化や習慣のルーツは、この歴史的背景にあるんですね!
西洋との接触とフランス植民地支配
16世紀以降、ヨーロッパ諸国のアジア進出が活発になると、ベトナムも大きな影響を受け始めます。
宣教師や貿易商がやってきて、キリスト教やラテン文字表記のクオック・グー(ベトナム語表記法)が伝えられたことも大きな変化でした。
19世紀に入ると、フランスがインドシナ半島への関心を強め、ベトナム全土を植民地化していきます。
特に阮朝(グエン朝)の時代に、フランスが次々と条約を結んで支配領域を拡大。
結果として、ベトナムはカンボジアやラオスとともに「フランス領インドシナ連邦」の一部となりました。
フランス植民地時代は、鉄道や道路などのインフラ整備が進んだ一方で、経済的・政治的にはベトナム人が大きく抑圧される時代でもありました。
西洋の教育や思想が一部の知識人に広まったことで、新しいナショナリズムや独立運動の芽が育っていきます。
その流れの中から登場したのが、後に北ベトナムの指導者となるホー・チ・ミンでした。
インドシナ戦争と分断の時代
第二次世界大戦中、日本軍がフランス領インドシナを進駐するなど、ベトナムの混乱はさらに深まります。
終戦後、フランスが再びベトナムを支配しようと動いたことに対し、ホー・チ・ミン率いる独立運動組織(ベトミン)が武装闘争を開始。
これが第一次インドシナ戦争(1946〜1954年)です。
戦争はディエンビエンフーの戦いでベトミン側が勝利し、ジュネーヴ協定によってフランスはベトナムから撤退しました。
しかし、北緯17度線を境に、北ベトナム(ホー・チ・ミン政権)と南ベトナム(ゴ・ディン・ジエム政権)に分断されることになります。その後、
ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争、1960年代〜1975年)へと突入し、アメリカ合衆国も南ベトナムを支援する形で介入。
世界を巻き込む大きな戦いへと発展していきました。
ベトナム戦争と統一
ベトナム戦争は、北ベトナムと南ベトナムとの内戦であると同時に、東西冷戦の代理戦争としての側面も強かったのが特徴です。
激しい戦闘が長期化し、多くの犠牲者を出し、国内は疲弊していきます。
世界的にも大きな影響を与えたベトナム戦争は1975年、北ベトナムが南を制圧し、事実上終結。
1976年にはベトナム社会主義共和国として統一を果たしました。
この時期のベトナムは、戦争の傷跡が深く、経済的にも文化的にも再建を迫られる状況でした。
統一後の政府は社会主義路線を強化しながら、国際社会との関係改善を模索していきます。
しかし、当時は米国をはじめとした西側諸国との関係が険悪で、貿易や援助も期待できず、経済は低迷の一途をたどっていました。
ドイモイ政策と現代のベトナム
そんな苦しい状況を打開するため、1986年に導入されたのが「ドイモイ(刷新)」政策です。
これは社会主義体制を維持しつつも、市場経済の要素を積極的に取り入れるという転換でした。
国有企業の民営化や外資の誘致、農業の自由化などが進められ、ベトナムの経済は徐々に活気を取り戻していきます。
1995年にはASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟し、2007年にはWTO(世界貿易機関)にも加入。
これによってベトナムの国際的な地位は高まり、近年では世界的な工場拠点としても注目を集めています。
日本企業の進出や観光客の増加も著しく、経済成長率の高さから「アジアの新たな成長エンジン」として認識されるようになりました。
社会主義を掲げながらも実質的には資本主義的な政策を取り入れ、輸出主導型の経済で成功を収めている姿は、中国と似たような道を歩んでいるともいえます。
一方で、農村部と都市部の格差や、政治体制の制限など、まだまだ解決すべき課題は山積しています。
まとめ
ベトナムは奥が深い国ですが、まずはざっくりとした流れを押さえておくと、次の一歩がスムーズ!
さらに詳しく興味が湧いたら、各王朝や戦争の詳細、あるいは民族や宗教の多様性について掘り下げていくと、より理解が深まるでしょう。
ぜひ、ベトナムを訪れたり、書籍やドキュメンタリーを通じて、その多面的な魅力を味わってみてください。