世界の歴史

ドイツ革命をわかりやすく解説!激動の1918-19年を読み解く

はじめに

ドイツ革命は、1918年から1919年にかけてドイツで起こった政治・社会上の大きな変革です。

主な出来事としては、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、帝政ドイツが崩壊して共和制が樹立されたことが挙げられます!

その結果、新たに「ヴァイマル共和国」という近代的な民主共和国が誕生しました。

ドイツ革命は、第一次世界大戦がもたらした混乱や国内の不満が爆発したことで始まりました。

よくフランス革命やロシア革命の影響も比較されますが、ドイツ革命はドイツ独自の事情に根ざして進んだ点が特徴です。

第一次世界大戦の影響

大戦前のドイツの姿

そもそも第一次世界大戦(1914~1918年)が始まる前のドイツは、ヨーロッパの強国として経済・軍事両面で台頭していました。

プロイセンを中心に諸邦国が統合されて帝国となり、重工業をはじめとする産業革命の恩恵を受け、国内では急速な近代化が進んでいたのです。

ただし、急激な発展の陰には、労働者の劣悪な労働環境や社会保障制度の遅れなどの問題もありました。

こうした社会不満は、やがてドイツ社会民主党(SPD)などの社会主義勢力が勢力を伸ばす要因となっていきます。

戦争による疲弊と混乱

1914年に始まった第一次世界大戦は、ドイツにとって当初は「短期決戦で勝てる」という期待がありました。

しかし実際には長期化・総力戦化し、戦線が膠着状態に陥ります。

  • 経済的疲弊:戦費の増大や海外からの資源不足により、国民生活が逼迫。
  • 市民の不満増大:食糧不足や物価高騰によって都市部の暮らしは困窮し、兵士の士気も低下。

1918年になると、戦況は連合国側に不利になったドイツが徐々に追い詰められ、国内外で「戦争をやめるべき」という声が高まります。

これらの要因が後にドイツ革命の導火線になっていくのです。

休戦と国内の変化

1918年11月にドイツは連合国との休戦協定を結びますが、その直前には国内のあちこちで革命の火種が燃え上がっていました。

大戦の終結が見えてくるにつれ、「帝政を維持しても国は立ち行かない」と感じる国民も増えました。

戦争からの敗北感・失望感が、政治体制の大きな変革を強く求めるうねりにつながったのです!

ドイツ革命前の社会背景

帝政ドイツ下の政治構造

ドイツ革命前のドイツは、表向きには議会制度があるものの、実際には皇帝と軍部が大きな権力を握っていました。

特に皇帝ヴィルヘルム2世は軍拡路線を進め、世界政策(ヴェルトポリティーク)と呼ばれる国際的な勢力拡大を図ろうとします。

議会にはSPD(ドイツ社会民主党)など革新的な政党も進出していましたが、政府は保守派が握り続け、大衆の政治参加には制限が多かったのです。

こうした不満が、大戦中にますます大きくなっていきました。

労働者の声と社会主義運動

当時、労働者たちの賃金や労働条件は厳しく、工場でも長時間労働が当たり前。

さらに劣悪な住環境や高い物価なども合わさり、暮らしは決して楽なものではありませんでした

そのため、SPDをはじめとする社会主義勢力が支持を集めていたのです。

社会主義運動といっても、SPD内には穏健派から急進派までさまざまなグループが混在していました。

特にレーニンらが主導したロシア革命(1917年)のニュースは、ドイツ国内の急進派を刺激します。

「ロシアが帝政を倒したのなら、ドイツも!」と考える若手活動家も増えていきました。

軍部の権威と「上からの改革」の限界

帝政ドイツでは軍人の地位が非常に高く、政治にも大きな影響力を持っていました。

第一次世界大戦後半になると、軍部のエリヒ・ルーデンドルフやパウル・フォン・ヒンデンブルクらが実質的に政治を動かす状況へと進んでいきます。

国内の急進化を恐れた政府や軍部の一部には、「国民からの突き上げがある前に、形だけでも改革を実施しよう」という動きもありました。

しかし戦争末期の状況では、まさに焼け石に水。

軍部や保守的な議会勢力による「上からの改革」は、国民の抜本的な変化要求を満たすには程遠かったのです。

ドイツ革命の始まりと展開

キール軍港での反乱

ドイツ革命は、しばしば海軍の兵士たちによる「キール軍港の反乱」から始まったと紹介されます。

キールは北ドイツの重要な軍港ですが、戦局不利な状況にもかかわらず、海軍上層部が「名誉ある戦い」を続行しようとしたことに兵士たちが反発し、ストライキや反乱に踏み切ったのです!

これが全国的な動きへと波及。

各地の兵士や労働者たちが、次々と「労兵レーテ(評議会)」を樹立し、自分たちの代表による自治組織をつくりました。

これは労働者や兵士が直接政治に関わろうとする革命的な動きでした。

ヴィルヘルム2世の退位と共和国宣言

1918年11月9日、首都ベルリンでは社会民主党(SPD)の指導者の一人、フィリップ・シャイデマンが議会の窓から共和政の樹立を宣言しました!

これによって、数百年にわたって続いてきた君主制は事実上崩壊し、ヴィルヘルム2世は退位せざるを得なくなります。

この時点でドイツ皇帝の存在が消滅し、帝政ドイツは終焉を迎えました。

11月11日には連合国との休戦協定が結ばれ、ドイツは敗戦国として新たな政治体制を模索していくことになります。

SPD主導の臨時政府

共和制が宣言された後、SPDのフリードリヒ・エーベルトが臨時政府の首班となりました。

穏健派社会主義政党であるSPDが政権を担うことになり、国民の期待も高まりましたが、同時に彼らは戦後処理や社会不安の対応など、数多くの難題に直面します。

エーベルトは、「労兵レーテ」の急進性を懸念し、国家の秩序維持に重点を置きました。

ここから革命勢力の中でも対立が深まり、SPDと急進派グループ(スパルタクス団など)との亀裂が決定的になっていきます。

革命をめぐる主な勢力と対立

SPD(ドイツ社会民主党)

SPDは当時、ドイツ最大の政党でありながら、穏健な社会改革を目指す路線を取っていました。

労働条件の改善や社会保障の拡充などを訴えながらも、議会制民主主義の枠内での改革を志向していたのです。

臨時政府を樹立したエーベルトやシャイデマンらは、このSPDの中心人物でした。

USPD(独立社会民主党)

SPDの穏健路線に不満を持った左派が、第一次世界大戦中に分裂してつくったのがUSPD(独立社会民主党)です。

彼らは戦争に反対する姿勢が鮮明で、資本主義の批判や労兵レーテを支持するなど、SPDよりも急進的でした。

ただし、USPD内部でも穏健派と急進派で意見が分かれ、統一的な行動が取りづらかった面があります。

スパルタクス団(後のドイツ共産党)

USPDよりさらに急進的だったのが、スパルタクス団(スパルタクス・ブント)です。

中心メンバーにはローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトがいました。彼らはロシア革命にならって社会主義革命を志向し、労兵レーテによる直接民主主義的な体制をめざしていました。

1918年末から1919年初頭にかけて、スパルタクス団は武装蜂起(スパルタクス蜂起)を試みるなど、より徹底的な社会革命を求めます。

しかし、エーベルト政権はこれを鎮圧する道を選び、武力衝突が発生。

ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトは残念ながら逮捕・殺害されてしまいます。

軍部や保守勢力との協力

ドイツ革命期にSPDが秩序を守るために選んだ戦略の一つは、旧軍部や右派的な民兵組織(フライコール)の力を利用することでした。

左派の急進主義を抑え込みたいSPD指導部は、あえて保守勢力との妥協を進めます

このことでSPDは革命からさらに距離を取り、急進派からは「裏切り者」と見られるようになります。

結果として、革命はある程度まで進んだものの、ロシア革命のように大規模な社会主義体制転換へとはつながらず、議会制の民主共和国が形作られる方向へ落ち着いていくのです。

ドイツ革命の結末と影響

ヴァイマル共和国の誕生

ドイツ革命によって倒された帝政に代わり、1919年には国民議会が選挙で選ばれ、ヴァイマル憲法が制定されます。

これが「ヴァイマル共和国」と呼ばれる政治体制の出発点です。

君主制が消滅し、男女普通選挙など比較的先進的な民主制度が取り入れられました!

しかし、革命期に国内が混乱しているタイミングで、連合国側との厳しい講和条約(ヴェルサイユ条約)が締結され、巨額の賠償金などが課されることになります

これが後のドイツ経済に深刻なダメージを与え、政局不安の大きな要因にもなりました。

革命の成果と限界

ドイツ革命の一番の成果は、帝政の廃止による近代的な議会制民主主義の導入です。

一方、革命の限界としては、ロシア革命と違い、労兵レーテによる徹底的な社会主義化が実現しなかった点が挙げられます。

また、革命政府が右派勢力との協力を選んだため、多くの急進的な活動家が鎮圧されてしまい、左派勢力が力を失っていく過程が生まれました。

この「中途半端に終わった革命」によって、国民の間では新政府への支持と不信が入り混じり、社会が大きくまとまれずに混迷が続くことになります。

経済的な混乱、さらに各地の政治対立によって、ヴァイマル共和国の政権は安定しにくい状況へと追い込まれました。

後のナチス台頭へ

ドイツ革命後、新たな共和国体制が発足したものの、賠償金や経済的苦境、社会不安が重なって政情不安が続きます。

とりわけ1920年代後半の世界恐慌によって失業率が急上昇し、国民の不満が再び爆発

これを背景に、アドルフ・ヒトラー率いるナチ党(NSDAP)が急速に力を伸ばし、1933年に政権を掌握するに至ります。

その後、ナチス・ドイツ体制が第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパや世界の歴史を大きく揺るがしていく――その遠因の一つに、ドイツ革命後の不安定な社会とヴァイマル政権の脆弱さがあったという見方もできます。

まとめ

ドイツ革命は歴史の教科書で簡単に触れられるだけのことも多いですが、一連の流れをくわしく見ると、さまざまな政治勢力の思惑や妥協、社会の急進性と保守性のせめぎ合いが見えてきます。

歴史を学ぶ意義は、こうした複雑な過程を理解しながら、今後の社会づくりのヒントを得るところにあるのです!

ほんの100年ほど前の出来事ですが、その影響は今でもヨーロッパはもちろん、世界中の政治・社会に広く残されています。

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