はじめに
イギリスとフランスの「仲が悪い」って本当?
イギリスとフランスは、地理的にも近く、お互いに長い歴史を持つ国です。
両国の関係は、同じヨーロッパに属しながらも対立と協力をくり返してきました。
「イギリスとフランスは仲が悪い」と耳にすることもあるかもしれませんが、その背景には数多くの歴史的エピソードが影響しています。
地理と文化の近さがもたらす影響
実は、イギリスとフランスはドーバー海峡を挟んでわずか約30〜40kmほど。
天気が良い日にはお互いの海岸線を肉眼で確認できるほどの近さです。
こんなにも隣国同士でありながら、しばしば衝突を繰り返してきた理由は何なのでしょう?
それをひも解く鍵は、古くは中世まで遡る歴史的な経緯にあります。
ここからは、両国がどのようにして対立や争いを重ねてきたのかを、わかりやすく段階を追って見ていきましょう!
対立のはじまり―ノルマン・コンクエストから中世へ
ノルマン・コンクエスト(1066年)
イギリスとフランスの関係を語るうえで、まず触れておきたいのが「ノルマン・コンクエスト」です。
1066年、フランス北部(ノルマンディー公国)の公だったウィリアム公(後のウィリアム1世)がイングランドに侵攻し、ヘイスティングズの戦いで勝利しました。
これによりイングランド王となったウィリアム1世は、フランスに領地を持ちながらイングランド王としても君臨するという、複雑な立場になったのです。
ここから、イギリス(当時のイングランド王国)とフランス王国は、王家同士の血縁や相続問題をめぐって何度も衝突を引き起こすことになります。
領地争いの火種
中世ヨーロッパでは、王や貴族が複数の地域にまたがる領地を持つことが珍しくありませんでした。
しかし、イングランド王がフランス領も支配しているという状況は、フランス王からすれば面白くありません。
イングランド領主としての顔を持つフランス貴族が、フランス王に臣従している一方で「イングランド」という大きな拠点まで手中にしているわけです。
さらに、フランス王家側も王権を強化し、領土を拡大しようと試みます。
こうして両国の関係は、一見すると同じ王侯貴族の世界にいながら、水面下で火花を散らす状態に入りました。
百年戦争―長きにわたる大規模対立
百年戦争の概観
イギリスとフランスの対立として最も有名なのが、14世紀から15世紀にかけて断続的に続いた「百年戦争」です。
百年戦争は1337年に始まり、1453年ごろまで続いたとされています。
その名のとおり、およそ100年以上にもわたる断続的な戦闘でした!
イングランド王がフランス王位を主張したことが直接の引き金となり、イングランドとフランスはフランス領内で激しい戦争を繰り広げました。
百年戦争はヨーロッパ史の中でも重要な戦いとして知られ、両国の関係を決定づける大きな要因になったのです。
エドワード黒太子と名将たち
百年戦争の初期には、イングランド側が大きく優勢でした。
長弓兵を活用した戦術やエドワード黒太子(エドワード王太子)の活躍により、クレシーの戦い(1346年)やポワティエの戦い(1356年)でフランス軍に勝利します。
これによってイングランド側はフランス国内の広大な領地を確保し、一時はフランス王に引けを取らないほどの勢力を誇りました。
しかし、フランス側も徐々に巻き返しを図り、ジャンヌ・ダルクの登場(1429年頃)によって潮目が変わります。
オルレアン包囲戦でイングランド軍を破り、その後シャルル7世がフランス王としての権威を確立。
結果として、最終的にはフランスがイングランドを追い出す形で終戦を迎えました。
百年戦争がもたらした影響
百年戦争は両国に大きな損害と変化をもたらしました。
フランス国内では農村が荒廃しながらも王権の統一が進み、その後の絶対王政の基盤につながります。
一方のイングランドは、大陸での領土をほとんど失ったものの、国内での王権強化や議会制の整備が進みました。
こうした両国の動きは、後々にそれぞれの「国民国家化」を促すことになります。
このように、百年戦争を通じてイギリスとフランスは「宿敵」と言えるような関係になり、それが現在の関係性につながっているのです!
大航海時代と植民地争奪―世界規模の競争
新大陸への進出
中世から近世へと時代が移り変わるにつれ、ヨーロッパ列強は大航海時代に突入し、新大陸やアジアへの進出に力を注ぎ始めました。
イギリスとフランスも例外ではなく、新たな領土や交易ルートの確保をめぐって「世界」を舞台に競争を繰り広げます。
当初、スペインやポルトガルが海洋探索で先行していましたが、イギリスとフランスは海軍力や貿易の強化で追いつき、北米やカリブ海、さらにはインドやアフリカにまで勢力を広げました。
北米での対立
北米大陸では、イギリスは東海岸沿いに13植民地を築き、一方のフランスは現在のカナダにあたる地域(ヌーベル・フランス)からミシシッピ川流域にまで広範囲に進出しました。
両国は毛皮取引などの経済的利益をめぐって対立し、時には先住民との同盟関係を利用して争いました。
代表的なのが「フレンチ・インディアン戦争(1754〜1763年)」で、これはヨーロッパでの「七年戦争(1756〜1763年)」と並行する形で戦われました。
最終的にはイギリスが勝利し、フランスは北米の植民地の大半をイギリスに譲り渡すことになります。
こうして北米大陸におけるフランスの影響力は大きく後退し、イギリスの勢力が一段と拡大する結果となりました。
インド・アジアへの進出
さらに、インドなどのアジア地域でもイギリスとフランスは衝突しました。
代表例が、インドでの植民地支配をめぐるカーナティック戦争(18世紀中頃)です。
最終的にイギリス東インド会社が優位に立ち、フランスはインドでの影響力を失います。
イギリスはこの勝利によって、後に「大英帝国」と呼ばれる世界的な植民地帝国の礎を築き上げていきました。
このように、新大陸やアジアでの植民地獲得競争も、イギリスとフランスの「仲の悪い」イメージをさらに強める要因となったのです!
ナポレオン戦争―ヨーロッパを揺るがす大激突
ナポレオン・ボナパルトの登場
フランス革命(1789年)で王政が崩壊し、混乱の最中から頭角を現したのがナポレオン・ボナパルトです。
彼は軍事的才能を発揮し、フランス第一帝政を樹立。
ヨーロッパ各国を次々と征服していく姿は「ヨーロッパを支配した男」として世界史に名を残しています。
トラファルガーの海戦とイギリス海軍の活躍
ナポレオンに対し、最大の対抗馬となったのがイギリスでした。
特に目覚ましい活躍を見せたのが海軍です。
1805年、ネルソン提督率いるイギリス海軍は、スペイン沖のトラファルガーの海戦でフランスとスペインの連合艦隊を破りました。
これによりイギリスは制海権を握り、ナポレオンが目指した対英上陸作戦を阻止することに成功します。
海軍力で優位に立ったイギリスは、ヨーロッパ大陸への直接侵攻こそ困難だったものの、大陸封鎖令などを乗り越えつつ、最終的に他のヨーロッパ諸国との同盟を組んでナポレオンを打倒しました(1815年のワーテルローの戦い)。
ナポレオン戦争の影響
ナポレオン戦争の結果、ヨーロッパの秩序は大きく書き換えられ、ウィーン体制(1815年〜)が成立します。
一方で、イギリスは海軍大国としての地位をさらに固め、フランスは帝政が崩壊したものの、その後も国内の政治的混乱を経て再び強い国家を目指していきます。
イギリスとフランスの対立構造は、ナポレオン戦争を通じて「陸のフランス vs. 海のイギリス」という図式がいっそう鮮明になったと言えるでしょう。
近代から現代へ―協力とライバル意識のはざま
クリミア戦争での協力(19世紀半ば)
19世紀半ばになると、ロシア帝国の南下政策を阻むため、イギリスとフランスはクリミア戦争(1853〜1856年)で協力体制を敷きました。
これは歴史的にみても珍しく、両国が同盟を組んだ例として注目に値します。
長きにわたって対立してきた両国が、共通の脅威に対して一時的に手を結ぶこともあったのです。
植民地競争・スエズ運河をめぐる駆け引き
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イギリスとフランスはアフリカ大陸などで植民地を拡大しつつも、時には衝突の危機を迎えました。
有名なのは「ファショダ事件(1898年)」で、スーダン(アフリカ北東部)における英仏の勢力圏をめぐる対立です。
実際に武力衝突は起こりませんでしたが、一触即発の状態でした!
また、当時は地中海と紅海を結ぶスエズ運河も戦略的要衝として注目を浴びており、イギリスとフランスが資金と影響力を巡って競い合う場にもなりました。
二つの世界大戦での協力
しかし、20世紀前半の二度の世界大戦では、イギリスとフランスは同盟国として戦いました。
特に第一次世界大戦(1914〜1918年)では、ドイツ帝国の脅威に対抗すべく、英仏は協力して連合国側の中心的存在となります。
第二次世界大戦(1939〜1945年)でもナチス・ドイツに対抗するという共通目的のもとで協力体制を組むなど、同じ「敵」に対する防衛の観点からは両国は手を携えたのです。
EUとブレグジット
第二次世界大戦後、ヨーロッパ各国は経済的・政治的結びつきを強め、のちにEU(欧州連合)を形成します。
フランスはEU統合の推進役のひとつとなりましたが、イギリスはEUに加盟してはいたものの、一貫して慎重な姿勢を示してきました。
結果的に、2016年の国民投票を経てイギリスはEU離脱(いわゆるブレグジット)を決定。
これはフランスを含むEU諸国との関係に大きな影響を与えました。
一方で現在も、イギリスとフランスはNATOを通じた安全保障協力を維持しているほか、経済や文化面でも相互依存を深めています。
そうした協力関係の一方で、いまだに漁業権をめぐる争いなど、局所的な対立は残っていますね。
まとめ
ライバル関係と相互依存
ここまで見てきたように、イギリスとフランスの「仲が悪い」というイメージは、長い歴史の中で繰り返された戦争や競争が大きな背景にあります。
百年戦争やナポレオン戦争などの大規模な軍事衝突だけでなく、植民地時代の世界的な覇権争いやEUをめぐる政治的・経済的な駆け引きなど、常にライバルとして意識し合ってきました。
しかし、だからといって常に敵同士だったわけではありません。
クリミア戦争や二度の世界大戦では同盟を組み、協力して共通の脅威に立ち向かったことも事実です。
これは「隣国ゆえの葛藤がありながらも、必要があれば手を携える」というヨーロッパの地政学的事情を如実に物語っています。
現代における両国の姿勢
現代のイギリスとフランスは、政治や経済、そして文化面でも切り離せないパートナーでもあります。
特にロンドンとパリは世界的な金融センター・観光都市であり、互いに多くの人々が行き来をしています。
ドーバー海峡トンネル(ユーロトンネル)の開通(1994年)によって交通面でもより密接に繋がり、ロンドン〜パリ間はユーロスターでわずか数時間。
観光や留学、ビジネスなど、お互いを往来する人々は年々増えています。
ただし、フランスがEU内で影響力を強めているのに対し、イギリスはEUを離脱し、自主性を高める道を選びました。
こうした国際政治上の戦略や思惑の違いから、時に摩擦が起こることは避けられません。
近年では移民政策や漁業権などをめぐって両国が対立するニュースもあり、一筋縄ではいかない関係が続いています。
サッカーやラグビーなどスポーツでのライバル意識
歴史的に積み上げられた対立や競争は、現代ではスポーツの世界にも色濃く表れます。
とりわけサッカーやラグビーでは、イギリス(特にイングランド)代表とフランス代表の試合は「伝統の一戦」としてファンを熱くさせます!
もちろん競技の場では対立心むき出しですが、その背後にはお互いの文化への敬意や関心も存在し、試合後は健闘をたたえ合うという面もあります。