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朝鮮の三国時代をわかりやすく解説!高句麗・百済・新羅の歴史と文化

はじめに

朝鮮半島の古代史と聞くと「三国時代(さんごくじだい)」という言葉を目にすることが多いかもしれません。

三国時代は、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の3つの国が朝鮮半島で勢力を競い合っていた時代を指します。

この三国はただ争っていたわけではなく、互いに文化や技術を取り入れながら交流を深めていた側面もあるんです!

本記事では、朝鮮の三国時代について初めて学ぶ方向けに、わかりやすく解説していきます。

三国時代の背景

三國時代(朝鮮)とは?

朝鮮の三国時代は、ざっくり言うと4世紀前後から7世紀末頃まで続いた時代を指します。

この「三国」というのが、高句麗・百済・新羅です。

3つの国はそれぞれ独自の文化や政治体制を築きながら、勢力を拡大しようと奮闘しました。

ここで重要なのは、朝鮮の三国時代が隣接する中国や倭(日本)との外交・交流とも深く結びついていた点です!

周辺地域との国交や戦争が三国の発展や衰退に影響を与え、それが朝鮮半島全体の歴史を大きく動かしました。

小国が林立していた時代からの移行

実は三国時代に至る前の朝鮮半島には、多くの小さな国や部族連合が存在していました。

その一つである「衛氏朝鮮」が前漢(中国)に滅ぼされた後、漢四郡(かんしぐん)が朝鮮半島北部に置かれたことで、中国からの影響が強まります。
さらに、南部でも「弁韓(べんかん)」「辰韓(しんかん)」「馬韓(まかん)」と呼ばれる地域に小国が点在していました。

これらの勢力がやがて統合されていく過程で、高句麗・百済・新羅という強力な三国が形成されることになります。

三国が並び立つ意味

高句麗・百済・新羅はそれぞれ異なるエリアを拠点にしていました。

北部を中心とした高句麗は強大な軍事力で知られ、中南部に位置した百済は外交や文化面で優れていました。

そして東南部を拠点とした新羅は地理的な条件を生かし、外来の文化を取り入れつつ国内体制を整えていきます。

三国は対立関係にありつつも、時には手を結んだり、また他国(中国や倭など)とも同盟を組んだりと、国際関係が非常にダイナミックに動く時代でした。

そうした歴史の流れをしっかり理解することが、朝鮮半島の古代史を学ぶうえで欠かせません!

高句麗(こうくり)―最北の強国

成立と拡大

高句麗は紀元前1世紀頃に建国されたとされています。

遼東地域や満州方面にも領土を広げ、朝鮮半島最北部で勢力を誇った強国です。

特に4世紀には広開土王(こうかいどおう、または好太王)の下で中国東北部から朝鮮半島の広範囲にまで支配を伸ばしました。

広開土王碑(こうかいどおうひ)は、高句麗の強盛ぶりを示す貴重な史料として有名ですよね。

高句麗の文化と特徴

高句麗と言えば豪快な騎馬文化や武勇が印象に残る国ですが、文化面でも興味深い特徴があります。

たとえば、高句麗の古墳には華やかな壁画が描かれており、当時の人々の生活や信仰、芸術性がうかがえます。

さらに高句麗は周辺の中国王朝からも仏教や儒教を積極的に取り入れ、独自の宗教観と結びつけました。

彼らは軍事的にも文化的にも力を持ち、朝鮮半島の勢力図で常に大きな存在感を示していました。

外交・戦争と周辺国との関係

高句麗は当時の中国の王朝(魏・晋・隋・唐など)や、南側に位置する百済や新羅とも頻繁に戦争や同盟を繰り返しました。

特に隋や唐といった大帝国との戦いは激しく、国力を大きく消耗する場面もしばしば起こります。

一方で周辺国との連合や和親政策をとることで、一時的に国の安定を確保することもありました。

ただし、後述する統一新羅の成立を背景に、7世紀後半には唐との戦争に敗れ、最終的に高句麗は滅亡してしまいます。

百済(くだら)―国際的な交流の要

馬韓から百済へ

百済は朝鮮半島の南西部を中心に勢力を伸ばした国です。

その起源は「馬韓」の小国のひとつからとされています。

4世紀には近肖古王(こんしょうこおう)武寧王(ぶねいおう)の時代に外交や文化面で大きく発展しました。

首都は最初、漢城(現ソウル付近)に置かれましたが、高句麗との対立や領土変遷の中で熊津(くまちん、現在の公州付近)→泗沘(しひ、現在の扶余付近)と移転していきました。

外交の巧みさと日本とのつながり

百済は外交が非常に巧みでした!

中国南朝や倭(日本)との関係を深め、積極的に文化や技術を取り入れることで国力を高めていったのです。

倭には仏教や文字(漢字)などの先進文化を伝えたとされ、これは日本の古代史でも重要なトピックとして語られています。

日本に渡った百済の技術者や学者、工芸家らは大きな影響を与え、古代日本の文化発展に寄与したといわれています。

特に仏教伝来や寺院建設、製陶技術など、後の日本の歴史を彩るさまざまな要素の源流として百済との交流が挙げられます。

栄華の影と滅亡

百済は一時的に新羅と同盟を結んで高句麗を圧迫するなど、朝鮮半島で大きな存在感を持ちました。

しかし次第に新羅との関係が悪化すると、唐と手を組んだ新羅の攻勢に押され、660年に滅亡してしまいます。

滅亡後も日本の援軍などで一時「復興運動」が起こりますが、最終的には叶わず、百済は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。

新羅(しらぎ)―最後に統一を果たす国

辰韓から新羅へ

新羅は朝鮮半島の東南部に位置し、「辰韓」という連合体の一部から発展したと考えられています。

建国当初は高句麗や百済に比べると弱小国でしたが、時とともに中央集権化を進めて実力を蓄えました。

4世紀から5世紀ごろには、王権を強化しながら国家体制を整えていきます。

花郎(ファラン)と新羅の独自性

新羅には「花郎(ファラン)」と呼ばれる青年組織が存在していたことで有名です。

花郎は貴族や名家の若者を中心とした武芸・芸術・道徳の修練集団で、国を支える武力・精神的支柱の役割を担いました。

また新羅は仏教を篤く信仰し、寺院を建てるなど文化的にも華やかな面を見せました。

仏教は貴族層だけでなく民衆にも浸透し、新羅の文化や政治体制を形成する重要な土台となりました。

三国統一へ向けて

新羅が朝鮮半島で強大化していく過程で決定的だったのは、唐との結びつきです。

新羅は唐と同盟し、百済を滅ぼし(660年)、続いて高句麗も滅ぼす(668年)ことに成功しました。

しかしその後、唐は朝鮮半島を直接支配しようと動き出します。

ここで新羅は唐とも戦い、最終的に朝鮮半島の大部分を自国の領土下に収めることに成功。

こうして7世紀後半には「統一新羅」と呼ばれる体制が誕生したのです!

もっとも、残された旧高句麗勢力渤海(ぼっかい)などの存在まで含めれば完全な“統一”とは言えないものの、三国を滅ぼして朝鮮半島南部をほぼ支配下に置いたという意味では、新羅は事実上の統一を果たした国となります。

三国の文化と交流

仏教の受容と広がり

高句麗・百済・新羅はいずれも4世紀から6世紀にかけて仏教を受容しました。

仏教を取り入れることで国家の精神的支柱として利用し、王権の正当化にも役立てたといわれています。

仏教寺院の建立や経典の翻訳、僧侶の派遣など、三国の間でも仏教を通じた文化交流が活発に行われました。

たとえば百済の僧侶が倭(日本)に渡って仏教を伝えた話は、日本史の教科書でも触れられています。

こうした動きは、朝鮮半島内だけでなく東アジア全体の文化形成に大きな影響を与えたのです!

漢字・儒教の導入

三国時代の朝鮮では、中国の漢字や儒教が積極的に取り入れられ、官僚制度の整備にも活かされました。

高句麗・百済・新羅のいずれも、自国の歴史書や記録を漢字で残すようになり、政治や外交文書も漢字を使って作成していました。

また儒教の倫理観が社会全体に浸透すると、家族制度や教育制度が変革を受け、貴族階級の間では儒学がステータスとみなされるようにもなります

これが朝鮮の後世(高麗王朝や李氏朝鮮)に連なる儒教国家体制の基礎となったのです。

芸術・建築の発展

三国時代には、それぞれの国で洗練された芸術や建築技術が花開きました。

特に高句麗の壁画古墳や百済の仏像、新羅の金冠などが有名です。

新羅の金冠はきらびやかな金細工が特徴で、王族の権威を象徴しています。

百済の仏像は穏やかな微笑をたたえているものが多く、柔和な造形美で知られます。

一方、高句麗の壁画からは勇壮で活気ある人々の生活がうかがえます。こうした芸術品は単なる装飾品ではなく、当時の宗教観や社会構造、対外交流を読み解く貴重な手がかりでもあるのです!

三国統一とその後

残された旧勢力と渤海

統一新羅が成立したからと言って完全に統一されたわけではなく、旧高句麗の遺民が満州方面で建てた「渤海(ぼっかい)」という国も7世紀後半に登場します。

渤海は高句麗の文化を継承した国として知られ、新羅と競合関係にありながらも一定の交流を持ち続けました。

渤海は「海東盛国(かいとうせいこく)」と呼ばれるほど繁栄し、唐や日本とも外交関係を結びます。

最終的には10世紀初頭に契丹(きったん)によって滅ぼされますが、渤海の存在は「朝鮮半島が完全に一国にまとまった時代は実はもっと後」と考える材料にもなっています。

まとめ

三国時代の終焉後、統一新羅が朝鮮半島の政治・文化の中心を担い、高麗王朝(918年建国)へと歴史は受け継がれていきます。

さらにその後の李氏朝鮮(1392年〜1897年)へとつながる長い歴史の基盤がここで形成されたのです。

朝鮮の三国時代は単に戦争や領土拡張の話だけでなく、文化・外交・技術交流においても非常に活気のある時代でした。

高句麗・百済・新羅のそれぞれがどのように生まれ、交流して、そして滅びていったのかを理解すると、東アジア全体の歴史をより広く深く味わうことができます。

ぜひ、実際に三国時代に関わる史跡や遺物を訪ねたり、関連する文献や資料にあたってみたりして、その魅力をさらに深く堪能してみてください!

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