パキスタンは、長い歴史と豊かな文化をもつ国です!
インダス文明という古代文明から、イスラーム文化の受容、ムガル帝国の繁栄、そしてイギリス植民地時代を経て、現在のパキスタンに至るまで、さまざまな時代を通じて形成されてきました。
パキスタンという国は、1947年に独立した比較的若い国家ですが、その背景には数千年にわたるストーリーがあります。
本記事では、初めてパキスタンの歴史に触れる方向けに、やさしい言葉で解説していきたいと思います!ぜひ最後までお付き合いください。
インダス文明のはじまり
パキスタンの歴史を語るうえで欠かせないのが、インダス文明です。
紀元前2500年頃から栄えたとされ、当時の主要都市にはモヘンジョダロやハラッパーなどが挙げられます。
インダス文明は、今のパキスタン東部からインド北西部にかけて広がっていた大きな都市文明で、計画的な街づくりや下水道システムなど、高度な技術をもっていたことで知られています。
また、インダス文明は豊かな農業生産によって支えられており、小麦や大麦などを栽培していた形跡があります!
そのおかげで都市の人口が増え、交易も盛んになったと考えられています。
現在も遺跡から様々な工芸品や印章(スタンプのようなもの)が出土し、当時の人々の生活や宗教観が少しずつ明らかになってきています。
しかし、紀元前1900年ごろになるとインダス文明は衰退を始め、やがて姿を消してしまいます。
その理由については、環境変化や河川の流れの変化、あるいは外部からの侵入など、さまざまな説がありますが、正確な原因はまだはっきりしていません。
いずれにせよ、インダス文明はパキスタンの歴史の原点とも言える重要な存在なのです。
アーリア人の到来と古代王朝
インダス文明が衰退したあとの地域には、北西からアーリア人と呼ばれる人々がやってきました。
彼らはインダス川流域をはじめ、インド北部一帯へと移動しながら定住を進めました。
この過程で生まれた文化のひとつがヴェーダ文化であり、その聖典「リグ・ヴェーダ」には当時の社会や宗教の姿が断片的に記されています。
やがてこの地域には、様々な王国や帝国が興亡を繰り返すようになります。
例えば、紀元前6世紀ごろにはアケメネス朝ペルシアの版図に含まれ、さらに紀元前4世紀になると、あのアレクサンドロス大王(マケドニア王国)の遠征によって一時的に支配を受けるなど、多彩な文化や勢力が入り乱れました。
この時期は決して一枚岩ではなく、地域ごとに特色ある宗教や文化が混在していたのが特徴です。
その後も、マウリヤ朝やクシャーナ朝などインド亜大陸を支配する帝国の影響下に入りながら、仏教やヒンドゥー教、様々な宗教が混在する多元的な社会が形成されていきました。
現在のパキスタン地域は地理的に「東西を結ぶ要所」であったため、貿易や文化交流の場としても非常に重要だったのです!
イスラームの伝来とガズナ朝・ゴール朝
パキスタンの歴史を語る上で大きな転換点となるのが、イスラームの伝来です!
7世紀にアラブからイスラーム教が広がると、8世紀頃にはシンド地方(現在のパキスタン南部)にウマイヤ朝の将軍が遠征してきました。
そこからイスラーム化が少しずつ進んでいき、10〜12世紀ごろにはガズナ朝やゴール朝といったイスラーム王朝が北西インド一帯を支配するようになります。
これらの王朝の下で、イスラームの学問や文化が広まり、同時にインドの伝統的な文化とも融合が進みます。
この頃にはモスクやマドラサ(イスラームの学校)が建設され、詩や音楽、建築などの芸術も発展しました。
また、ペルシア語が宮廷などで使われるようになり、現在のパキスタンやインド北部の文化や言語に大きな影響を与えました。
ムガル帝国とイスラーム文化の黄金期
その後、16世紀に成立したムガル帝国は、現在のパキスタンやインド北部、さらに大部分の南アジアを統治し、イスラーム文化とインド文化がさらに融合した独特の世界を築き上げます。
ムガル帝国といえば、タージ・マハルのような壮麗な建築が有名ですが、この時期にペルシア・トルコ系の文化とインドの伝統がミックスされた芸術が花開きました!
ムガル帝国はアクバル帝(1556-1605年在位)らの統治によって、宗教的な寛容政策を取り入れたことでも知られています。
イスラーム教徒だけでなく、ヒンドゥー教や他の宗教を尊重する姿勢を見せたため、多様な文化が帝国の下で共存できたのです。
さらに、ペルシア語やウルドゥー語が文学・学術の言語として発展したのもこの時期といえます。
ただし、ムガル帝国は18世紀になると衰退が始まり、地方勢力が独立したり、外部勢力の侵入を受けたりして、次第に支配力を失っていきました。
ここで登場したのがヨーロッパの列強国です!
イギリス植民地支配と「イギリス領インド帝国」
18世紀末から19世紀にかけて、イギリスはインド亜大陸に進出し、最終的には「イギリス領インド帝国」を樹立して広大な地域を支配しました。
現在のパキスタン地域も例外ではなく、パンジャーブやシンド、バローチスターン、北西辺境地域(今のカイバル・パクトゥンクワ)などがイギリスの支配下に組み込まれていきます。
イギリスの植民地支配下では、鉄道や道路などのインフラが整備される一方で、イギリス人による経済支配や現地人への差別が強く存在しました。
また、従来のムスリム支配層の権威は大きく損なわれ、インド亜大陸全体で反植民地主義の動きが徐々に高まっていきます。
イギリス統治時代、インド亜大陸のムスリムたちの中には、ヒンドゥー教徒が多数派の社会で自分たちの権益が守られるのか、不安を抱える人々もいました。
こうした背景から、ムスリムたちの政治的利益を守るために結成された組織の一つが「全インド・ムスリム連盟」であり、後にパキスタン独立の大きな原動力となっていきます。
独立運動と「パキスタン」の誕生
19世紀末から20世紀前半にかけて、インド亜大陸では反英運動が活発になります。
インド国民会議(インド・ナショナル・コングレス)を中心に独立を求める運動が高まる一方、ムスリムの政治的権利を確保しようとするムスリム連盟も台頭してきました。
この二大組織の主導者たちは、当初は「イギリスからの独立」では一致していたものの、独立後の政体や多数派・少数派問題で意見が対立し始めます。
ムスリム連盟の指導者として有名なのが、ムハンマド・アリー・ジンナーです。
彼は、当初はヒンドゥー・ムスリムが協力して独立を勝ち取る道を模索していたのですが、しだいに「ムスリムが安心して暮らせる別の国家(パキスタン)」を求めるようになりました。
やがて第二次世界大戦後の1947年、イギリスからの独立が認められると同時に、インドはヒンドゥー教徒が中心の「インド」と、ムスリムが中心の「パキスタン」に分割されることになります。
このとき、パキスタンは現在の地図よりも広く、東西に分かれた飛び地のような形で誕生しました!
つまり、西側が現在のパキスタン、東側が後にバングラデシュとして独立する「東パキスタン」だったのです。
しかし、インドとの国境線が引かれる際には多くの混乱が生じ、宗教対立を背景に大規模な難民の移動や暴力事件が発生しました。
その結果、数十万人とも言われる人々が命を落とし、インド・パキスタン分離独立は悲劇的な側面も残しています。
東パキスタンの独立とバングラデシュ誕生
インドから分離独立を果たしたパキスタンでしたが、「東パキスタン」と「西パキスタン」は地理的にも文化的にも大きく異なり、政治経済のバランスが崩れていました。
西パキスタン(現在のパキスタン)に政治・経済の中心が置かれる一方で、東パキスタン(現在のバングラデシュ)側は人口は多いものの、開発や政治参加で冷遇される形になっていました。
1970年代に入ると東パキスタンでは独立運動が盛り上がり、やがて1971年にバングラデシュとして独立を宣言します。
これに対し、当時のパキスタン政府は軍事介入を行い、激しい内戦状態となりました。
結果的にバングラデシュは独立を勝ち取り、現在のパキスタンは西側のみの領域として再出発することになったのです。
軍事政権と民主化の歩み
バングラデシュの独立後、パキスタンでは政治的混乱が続きました。
アリー・ブットー首相の下で新憲法が制定されるものの、やがて軍部がクーデターを起こし、ズィア・ウル・ハク将軍が権力を握ります。
パキスタンの軍事政権時代は、イスラーム化政策や宗教勢力の台頭などを背景に、国際的にも緊張感をはらんだ時期となりました。
特に1980年代のソ連のアフガニスタン侵攻に際しては、パキスタンはアメリカ合衆国やサウジアラビアと協力してアフガンの反ソ勢力を支援。
国内には多数のアフガン難民が流入し、同時にテロや武器・麻薬の流入も増え、社会不安が高まりました。
その後、ズィア・ウル・ハクの死去(飛行機事故)を経て、ベナジル・ブットーやナワーズ・シャリーフといった文民政権が交互に誕生しますが、軍や宗教勢力との軋轢、汚職問題などが続き、政局は安定しません。
21世紀に入ってからも、ムシャラフ将軍による軍事政権が誕生し、アメリカの「対テロ戦争」に協力する形で国内外の政治状況は複雑化しました。
現代パキスタンの課題と展望
現在のパキスタンは、軍や情報機関が強い影響力を持ち、政治が不安定になりがちな側面があります。
一方で、近年は民主化の動きも進み、少しずつではありますが民衆の声が反映される政治体制の確立が模索されています。
また、経済面では中国が推進する「中国・パキスタン経済回廊(CPEC)」など大型インフラプロジェクトが進行しており、交通網やエネルギー開発の充実が期待されています。
ただし、対インド関係やテロ問題、宗教対立など、依然として解決すべき課題は山積みです。
そんな中でも、パキスタンの若者たちは教育の向上やIT産業の発展に期待し、積極的に新しい分野へチャレンジしている姿もあります。
伝統文化を大切にしつつ、国際社会との連携を深めながら、どのような未来を描いていくのか。
これはパキスタンのみならず、南アジア全体にとって大きな関心事といえるでしょう!
まとめ
今回ご紹介したように、パキスタンの歴史は広大な時の流れの中で多様な文化や宗教、政治体制が交錯しながら形成されてきました。
独立以前の歴史を紐解いていくと、多民族・多宗教が混じり合うダイナミックなストーリーが見えてきます。
一方で、近現代史に目を向けると、インドとの分離独立や東西分断、軍事政権など、苦難の歴史が繰り返されてきたことも事実です。
それでも若い世代を中心に、新しい国づくりや国際協力の道を模索する人々が増えつつあります。
パキスタンの今後は、インドや中国、アフガニスタンなど近隣諸国との関係だけでなく、世界的にも重要なトピックとなり続けるでしょう。
パキスタンの歴史はとても奥深く、ここではすべてを網羅できませんでしたが、入門としてイメージを掴むきっかけになれば幸いです。
これを機に、さらに詳しい資料や本を読んでみるのもおすすめですよ!
多彩な魅力をもつパキスタンの歴史を知ることは、南アジア全体の理解を深める大切な一歩になります。