日本の歴史

本能寺の変を簡単に解説!初心者もわかる織田信長と明智光秀のドラマ

本能寺の変は、日本史において非常に有名な事件のひとつです!

織田信長が家臣の明智光秀によって討たれた」という印象をお持ちの方が多いかもしれません。

けれども、その背景や理由、そして後に残された影響は、意外と複雑でドラマティックなんです。

本記事では、歴史初心者の方でもわかりやすいように「本能寺の変」を簡単に解説していきます!

難しい専門用語は極力省いてまとめましたので、最後までぜひご覧ください。

本能寺の変とは?

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年(1582年)6月2日に起きた、織田信長が家臣の明智光秀によって攻撃され、命を落とした事件です。

京都にある本能寺で起こったことから「本能寺の変」と呼ばれています。

戦国時代の終盤、いよいよ全国統一が見えてきた段階で突如起こったこの事件は、「信長はなぜ討たれてしまったのか?」という大きな謎とともに、歴史上最大級の衝撃をもたらしました。

なぜ有名なのか?

本能寺の変がここまで有名になった理由のひとつは、攻撃された側が「織田信長」という戦国時代きってのカリスマだったからです!

戦国の三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の筆頭と言われるほど、信長は当時としては革新的な政策や戦術を行い、力をどんどん拡大していました。

全国統一まであとわずか……というところでまさかの急襲!

しかも、それを実行したのが信長の家臣・明智光秀だったため、「なぜ忠実そうに見えた光秀が主君を討ったのか」という点も人々の好奇心をかきたて続けています。

さらに、こうしたドラマティックな裏切り劇に加えて、その後の日本の歴史が大きく変わる結果を生んだという点も、本能寺の変が特に語り継がれる要因のひとつです。

もしもあの時、信長が生き続けていれば、日本史はまったく違った展開を迎えていたかもしれません。

そう考えると、本能寺の変は「歴史のターニングポイント」とも言える出来事なのです。

明智光秀と織田信長の関係

本能寺の変を理解するには、やはり明智光秀と織田信長との関係を知ることが欠かせません。

光秀は、もともと「本能寺の変」の数年前から織田家に仕えていました。

大河ドラマや小説などでも度々取り上げられる人物で、史料によっては「文武両道の秀才」「合理的な武将」「律儀で真面目な性格」といったイメージがあります。

一方、織田信長はどうだったかというと、武力や権威で敵対勢力を圧倒し、既存の価値観を打ち破る改革者としての一面が際立ちます。

以前から「敵には容赦しないが、有能な家臣や商人には破格の待遇を与える」といったエピソードが多く語られてきました。

つまり、信長と光秀はタイプこそ違えど、共に頭が切れ、戦国時代を生き抜くだけの高い能力を持っていたのです。

ただし、2人の間に確執や衝突があったのではないか、と考えられることもしばしば。

いわゆる「パワハラ説」(信長からの過度な叱責やいじめ)や、「家督問題説」(光秀が自分の領地や身分が脅かされると感じた)など、様々な説が浮上しています。

史料が少ないこともあって確かな結論は出ていませんが、いずれにせよ本能寺の変が起きる背景には、光秀なりの不満や危機感があったのかもしれません。

時代背景と状況

戦国時代後期、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を実質的に支配下に置く形で権力を握っていきました。

やがて信長は義昭との対立を深め、最終的には義昭を追放することで、名実ともに強力な権力者として君臨します。

信長の勢力拡大の速度は非常に速く、各地の大名が次々と織田軍に降伏するか、あるいは討たれていきました。

そうした中、明智光秀は近江(今の滋賀県)や丹波(今の京都府・兵庫県北部)といった地域の攻略で大きな功績をあげ、信長の重臣として評価を得ていたのです。

しかし、この時代はまさに「下克上」の風潮が強い時代!

主君と家臣の関係も永遠ではなく、自らの出世や生き残りをかけて裏切りや同盟の切り替えが日常茶飯事でした。

信長に仕える家臣たちも、その強力な力や苛烈な性格に対して内心の不安や不満を抱えていた可能性があります。

そうした状況があったからこそ、本能寺の変は突発的に起こり得た、とも考えられます。

本能寺の変の流れ

それでは、実際に当日の流れを簡単に見てみましょう!

天正10年(1582年)6月1日夜~2日早朝

織田信長は京都の本能寺に宿泊していました。

当時、信長は中国地方の毛利氏との戦いを指揮している豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)を支援するため、京都に滞在していたとされています。

そのころ、明智光秀は1万3000人ともいわれる軍勢を率いて出陣の準備を進めていました。

表向きは「毛利攻めのための出陣」と伝えられていたのです。

6月2日未明

光秀軍は突如として京都へ向かい、本能寺を包囲!

このとき、信長には護衛がほとんどいませんでした。

なぜなら、大きな戦場に出ているわけではなく、身辺が比較的手薄になっていたからです。

そのすきに光秀軍が一気に襲撃をしかけました。

織田信長の最期

逃げ場を失った信長は、寺に火を放って自害したと伝えられています。

遺体が発見されなかったことなどから「信長生存説」のようなロマンあふれる話もありますが、公式には本能寺で亡くなったと考えられています。

いずれにせよ、圧倒的なカリスマを誇った信長はここで生涯を閉じたのです。

その後の動き

明智光秀は、すぐさま京都御所に向かい、朝廷から「惟任(これとう)」の称号を改めて認められるなど、政治的な正当性を確立するために動きました。

しかし、すぐ後に豊臣秀吉が「山崎の合戦」で光秀を破り、光秀自身も落ち武者狩りに遭って命を落とします。

本能寺の変からわずか11日後に光秀はその人生に幕を下ろしたのです。

なぜ明智光秀は信長を討ったのか? 諸説紹介!

本能寺の変の最大のミステリーともいえるのが「光秀がなぜ主君である信長を討ったのか?」という点です。

多くの説がありますが、代表的なものをいくつか簡単にご紹介します!

怨恨説(パワハラ説)

織田信長の苛烈な性格が災いして、光秀は長年にわたり酷い仕打ちを受けていたという説です。

「宴席で光秀の頭を叩いた」「領地を取り上げた」など、さまざまなエピソードが伝えられています。

主君からの過度な圧力に耐えかねて光秀が反旗を翻した、というわけですね。

天下取りを狙った野心説

光秀自身が優秀な軍略家であったがゆえ、信長の死後に自分が天下を取れるのではないか、と野心を抱いたとする説です。

本能寺の変を起こした直後、光秀はすぐに朝廷との交渉に動いていたことからも、政治的野心があった可能性は否定できません。

朝廷や足利義昭との陰謀説

当時、織田信長の急激な権力拡大に危機感を覚えていた朝廷や旧幕府勢力(足利義昭)との間に、何らかの密約や裏工作があったのではないか、という説も根強く存在します。

光秀が単独で行動したのではなく、周囲の勢力の後押しがあったのかもしれません。

毛利氏との外交工作説

毛利氏との戦いにおいて、光秀が独自に毛利側と協定を結んでいた可能性があるという説もあります。

秀吉との合流目前というタイミングを狙ったのは、毛利からの協力や計略が関係しているのでは、という見方です。

    いずれの説も、決定的な証拠が不足しており、歴史小説や学術的な研究でも解釈が分かれるところです。

    どの説が正しいのか、未だにわかっていないのが本能寺の変の面白さでもあります!

    本能寺の変が及ぼした影響

    本能寺の変は、単なる主従関係の裏切りにとどまらず、後世の日本史に大きな影響を与えました。

    ここでは、その代表的な影響をピックアップしてみましょう!

    豊臣秀吉の台頭

    信長亡き後、一気に頭角を現したのが豊臣秀吉です。

    本能寺の変を知るうえで外せないのが、その直後に秀吉が見せた「超速」の反応でした。

    中国地方の毛利氏との講和をまとめ上げ、急ぎ京都方面に引き返し、山崎の合戦で光秀を討ったスピード感は驚異的です。

    これによって秀吉の名声は一気に高まり、後の「天下統一」への道が開かれました!

    徳川家康の躍進

    家康もまた、本能寺の変後の混乱の中で巧みに立ち回り、勢力を伸ばしました。

    家康は本能寺の変発生時、堺方面に滞在していたとされていますが、すぐに三河へ逃げ帰るルートを模索するなど危機を乗り越えます。

    秀吉が亡くなった後、最終的には江戸幕府を開いたのですから、もし信長が生きていれば家康の人生も大きく違っていたかもしれません。

    戦国時代の終焉が早まった?

    信長が生きていれば、もう少し違った形で全国統一が進んだ可能性があります。

    しかしながら、本能寺の変によって信長のカリスマ支配は途切れ、秀吉や家康といった新しいリーダーのもとで統一が進むことになりました。

    結果的に豊臣政権、そして江戸幕府へと日本史は流れていきます。

    この流れが本能寺の変を契機に一気に加速したとも言えるでしょう。

    武将たちの評価が変わった

    明智光秀は、主君を裏切った「謀反人」として長らく悪評が強かった人物です。

    しかし、近年では光秀が地域の振興に尽力したり、領民に慕われたりしていた面にも注目が集まり、再評価が進んでいます。

    織田信長も残虐な側面だけでなく、経済政策やキリスト教布教への寛容さなど、多角的な視点から見直しが進んでいます。

    本能寺の変を通して、歴史上の人物像が一層深みを増しているのです。

    本能寺の変と現在の京都

    本能寺の変の舞台となった「本能寺」は、現在も京都市内にあります。

    ただし、事件当時の本能寺は現在の場所とは異なる場所にあったとされています。

    当時の本能寺は、京都市中京区の「本能寺跡石碑」が立つ付近にあったと言われており、観光名所にもなっています。

    もし京都を訪れる機会があれば、明智光秀ゆかりの地である「明智藪(あけちやぶ)」や「山崎の合戦」ゆかりの地も合わせて回ってみると、歴史のロマンにどっぷり浸れますよ!

    京都は、戦国時代の様々な逸話や痕跡が残っているので、本能寺の変に関連する史跡巡りはおすすめです。

    まとめ

    本能寺の変は、戦国時代を語るうえで欠かせない、大事件中の大事件です!

    カリスマ君主・織田信長がその家臣・明智光秀によって倒されるという衝撃的な結末は、多くの人々の心をとらえて離しません。

    なぜ光秀が裏切ったのか、その真相は未だ謎に包まれていますが、その分だけ歴史好きの好奇心をくすぐり続けているとも言えます。

    この事件がきっかけで、豊臣秀吉や徳川家康が台頭し、日本は江戸幕府へと向かう大きな転換点を迎えました。

    もし本能寺の変がなければ、信長が天下を支配していたかもしれませんし、歴史の流れが全く違ったものになっていた可能性も高いです。

    ぜひ、この機会に「本能寺の変」を入り口として、戦国時代の奥深い世界へ足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。

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