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地動説とは?コペルニクスやガリレオが生きた時代背景も徹底解説!

2025年1月17日

はじめに:地動説って何?

地動説とは、簡単にいうと「地球が動いているという考え方のこと」です。

今の私たちにとっては「当たり前!」と思われがちなこのアイデアですが、昔の人々にとってはとても過激な説でした。

なぜ過激だったのかといえば、当時は「天動説」、つまり「宇宙の中心は地球であり、すべての天体が地球の周りを回っている」と考える人がほとんどだったからです。

長い間、天動説は当たり前の常識として受け入れられており、それに反する意見を発表することは社会的にもリスクが大きかったのです。

そんな中で登場したのが「地動説」。

地球こそが太陽の周りを回っている、という説であり、これによって当時の常識や権威に真っ向から挑戦したのです。

地動説が生まれるまで:天動説の時代

地動説を語る前に、まずはその背景となる天動説について見ていきましょう!

天動説は、紀元前4世紀頃の古代ギリシャの哲学者アリストテレスが整えたとされています。

さらに紀元2世紀ごろ、プトレマイオスという天文学者が「天動説」を体系化し、その理論は「プトレマイオスの天文学」と呼ばれていました。

この理論では、宇宙の中心は地球であり、月や太陽、星々は地球の周りを回っているとされていました。

当時は、天体観測の技術も限られていたため、この理論を「観測データに合わせて補正」しながら使っていたわけです。

周期の合わない部分を「惑星が逆行している」などと解釈するために「周転円」などの複雑な概念も考案されました。

これでも当時としては、「天文学理論としてよく機能していた」と思われていたのです。

また、宗教的にも、聖書には「神が地球を中心に世界を造った」といった解釈を重んじる流れが強かったため、天動説は宗教の教えとも結びつき、「絶対的な真理」として受け入れられたのです。

こうしてヨーロッパでは、中世まで「天動説が絶対」という空気が支配的でした。

コペルニクスと地動説の始まり

そんな時代に異を唱えたのが、ポーランド出身の天文学者、ニコラウス・コペルニクス(1473–1543)です。

彼はプトレマイオスの天動説を学びつつも、その複雑な計算に疑問を抱き、「もしかして、太陽の周りを地球が回っているんじゃないか?」という考えに至ったのです。

コペルニクスの革新的なアイデア

コペルニクスは、太陽を中心に地球を含む惑星が回る「地動説」をまとめ、1543年に主著『天球の回転について(De revolutionibus orbium coelestium)』を発表しました。

しかし、書籍として出版されたのはコペルニクスが亡くなる直前。

なぜ発表をためらったのでしょうか?

当時は、宗教的権威を持つカトリック教会が極めて強い影響力を持ち、聖書に明確に反するような説を公表することは、命がけの行為でもありました。

実際、地動説を主張する学者がいれば、「異端」と見なされ、裁判にかけられ、投獄・火刑などの厳しい罰を受けることもあったのです。

このような背景から、コペルニクスは書籍刊行を躊躇し、晩年になってようやく発表に踏み切りました。

コペルニクスと減給

コペルニクスは当時、教会の聖職者として一定の給与をもらっていました。

しかし、地動説の研究にのめり込むうちに、周囲から「何をバカなことを言っているんだ!」と批判されることも多く、その研究活動に対する資金や援助が大幅に減らされていったと伝わっています。

いわゆる「減給」や支援打ち切りの形で、教会からの圧力を受けたのです。

ただ、コペルニクス自身は聖職者としてきちんと務めをはたしていましたから、身柄を拘束されるなどの直接的な迫害は比較的少なかったともいわれています。

しかし、このような経済的圧力に苦しむことは避けられず、精神的にもきつい状況だったようです。

いずれにせよ、コペルニクスが提示した「地動説」は、当時の常識を覆す大事件でした。

太陽の周りを地球が回っている」という考え方は革新的で、彼の理論は後世に大きな影響を与えていくのです。

ガリレオ・ガリレイの挑戦とその影響

コペルニクスの地動説をさらに発展させた存在が、イタリアの物理学者・天文学者のガリレオ・ガリレイ(1564–1642)です。

彼の名前は聞いたことがある方も多いでしょう!

望遠鏡で見えた真実

ガリレオは、当時としては画期的な望遠鏡を自作し、天体を詳細に観測しました。

その結果、「月の表面にはクレーターがある」「木星には4つの衛星がある(ガリレオ衛星)」など、これまでの天動説では説明しにくい発見を次々ともたらしました。

こうした観測結果は、地動説を強く裏付けるものとなります。

ガリレオは、観測結果をもとに「コペルニクスの言う地動説こそが正しい!」と確信し、その主張を公表しました。

その中には『星界の報告(Sidereus Nuncius)』(1610年)や『天文対話(Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo)』(1632年)といった書籍がありますが、これらは明確に地動説を支持する内容でした。

ガリレオに降りかかる宗教裁判と減給

ところが、こうした地動説の主張は当時のカトリック教会が許容できる範囲を超えていました。

教会の強い権威のもと、ガリレオは「異端」の疑いをかけられ、ついに宗教裁判にかけられてしまいます。

結果として、彼は「地動説を支持することの放棄」を強要され、自宅軟禁(軟禁状態)に置かれました。

さらに、彼が務めていた大学や教会からの資金援助は停止され、いわゆる「減給」という形で生活費を断たれる処分も受けました。

ガリレオの名声は高かったため命を奪われることは免れましたが、その後の研究活動は大きく制限されることになりました。

こうしたガリレオに対する処遇は、当時の社会における「科学と宗教の衝突」を象徴する出来事として有名です。

地動説に関与したその他の科学者たちと減給などの処遇

地動説の流れにかかわった科学者は、コペルニクスやガリレオだけではありません!

たとえば、ヨハネス・ケプラー(1571–1630)やジョルダーノ・ブルーノ(1548–1600)なども大きな足跡を残しています。

ケプラーの功績

ケプラーはドイツ出身の天文学者で、惑星の運行を精密に計算し、「ケプラーの法則」と呼ばれる3つの法則を打ち立てました。

ケプラーの法則は、惑星が太陽の周りを楕円軌道で公転していること、そして地動説に基づく天文計算を非常に正確にできるようにした点で画期的でした。

しかし、彼もカトリック教会と対立する場面が多々あり、資金援助の打ち切りや減給といった苦しい状況にさらされることもあったのです。

ブルーノの悲劇

一方、イタリア出身の哲学者ジョルダーノ・ブルーノは「宇宙は無限であり、地球だけでなく星々にも生命が存在するかもしれない」といった主張を展開し、当時の宗教観から大きく逸脱した考えを持っていました。

そのため、彼は異端者として見なされ、火刑に処されてしまいます。

ブルーノの場合は「地動説」だけが問題というわけではなく、それ以外にもキリスト教の教義に対して批判的な要素を含む考えを主張していたため、あまりにも危険視されたのです。

こうして、当時の社会では「宗教」をはじめと る既存の権威に疑問を投げかけること自体が大きなリスクを伴いました。

多くの科学者が経済的支援を失い、いわゆる「減給」や「投獄」、そして「最悪の場合は死刑」に至ることもあったのです。

地動説を主張することは、それほどまでに大変な勇気を要する行為でした。

当時の社会と地動説:なぜ迫害されたのか?

なぜ地動説は、ここまで迫害されなければならなかったのでしょう?

その大きな要因の一つは「当時の社会において、宗教(特にカトリック教会)が絶対的な権威を持っていた」ことです。

中世からルネサンス期にかけてのヨーロッパでは、教会の教えが社会のルールの基盤となっていました。

そうした中で、聖書の世界観と明らかに異なる地動説を唱えることは、「神の教え」を否定する行為にほかならない、と受け止められやすかったのです。

結果として、教会は「異端者」に対して徹底的な弾圧を行い、見せしめの意味合いも込めて厳しく取り締まりました。

これは「信仰を守る」という名目でしたが、同時に「既存の社会秩序」を守るための方策でもありました。

また、各地の君主や支配者も教会と強い結びつきをもっていました。

権力基盤を安定させるために教会からの支持を必要としていた支配者は、教会に逆らう言動をとる科学者を擁護することは難しかったのです。

こうした構図の中で、ガリレオやコペルニクスがたとえどれほど科学的証拠を提示しても、それを受け入れる社会的土壌が十分には育っていなかったのです。

ぴろき

既得権益と革命の衝突...現代でも様々なところで見られる根深い問題は、この論点に収れんすることが多いよね。歴史は繰り返されるんだ。

天文学の進歩と地動説の確立

それでも、長い年月をかけて天文学の技術は進歩し、「地動説が正しい」という認識が徐々に広がっていきました。

天体望遠鏡の改良

ガリレオの時代以降、望遠鏡の性能はどんどん向上していきました。

より精密な観測が可能になるにつれ、地動説を裏付ける証拠が次々と見つかっていきます。

ケプラーの法則とニュートン力学

ケプラーによる惑星運動の法則化は、実際に太陽を中心として惑星が楕円軌道を描くというモデルを確立しました。

さらに17世紀後半、イギリスの科学者アイザック・ニュートン(1642–1727)が万有引力の法則を発見し、太陽と惑星の間に働く引力によって惑星が公転する仕組みが理論的に説明できるようになったのです。

これによって、「地球が動いている」という地動説は科学的に確固たる根拠を得ることになりました。

教会側の対応の変化

時代が進むにつれ、宗教改革や啓蒙主義の精神などがヨーロッパに広まり、教会が科学への統制力を失っていきます。

18世紀頃になると、地動説に対する強硬な弾圧は徐々に和らぎ、最終的には教会も地動説を公に認めるようになりました。

ガリレオが裁判を受けてから実に350年余りたった1992年、ローマ教皇庁はガリレオへの非難が誤りだったことを公式に認めたとされています。

こうして地動説はやがて一般常識として広まり、今日では「地球が太陽の周りを公転している」ことが当たり前の事実として、子どもたちにも教えられるようになったのです。

地動説がもたらしたものとは?

地動説は、単なる天文学の発展にとどまりませんでした!

その意義は、以下のような広がりを持ちます。

  1. 世界観の変化
    「神が作った世界の中心に人間がいる」という感覚から、私たち人間も宇宙の中の一惑星にすぎない、という視点の転換をもたらしました。このことは人間の世界観を大きく広げ、哲学や思想にも多大な影響を与えました。
  2. 科学的方法の確立
    地動説を確かめる過程で、観測・実験・理論構築といういわゆる「科学的方法」、経験主義が着実に形づくられました。この流れは、やがて近代科学の礎となり、さまざまな分野の発展を後押しすることになります。
  3. 宗教と科学の関係の変化
    地動説の受容は、一方で「教会の絶対的権威」に疑問符を付けることに繋がりました。結果として宗教改革や啓蒙思想の流れを強め、近代的な社会・政治制度の形成にも少なからぬ影響を及ぼしたのです。

こうした意義を振り返ると、地動説は天文学の枠を超えた「大転換」だったといえるでしょう。

何世紀も前に、困難な状況の中でも地動説を提唱し続けた科学者たちの情熱と勇気に、思わず感謝の念を抱かずにはいられませんね!

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