はじめに
五・一五事件とは、1932年(昭和7年)5月15日に起こった日本のクーデター未遂事件のことです。
この事件では、海軍の青年将校たちが中心となり、犬養毅(いぬかい つよし)首相を襲撃・殺害するという衝撃的な出来事が起こりました。
当時の日本は、軍国主義へと進みつつある不安定な時代背景があり、「昭和維新」や「国家改造」を叫ぶ過激な思想が勢いを増していました。
五・一五事件は、これらの流れの象徴的な出来事であり、日本国内だけでなく世界にも大きな衝撃を与えました。
初学者の方でもわかりやすいよう、五・一五事件までの時代背景や、事件当日の出来事、その後の日本社会に与えた影響などを順を追ってまとめています。
歴史に詳しくない方でもなるべく理解しやすいよう、関連人物や出来事を整理しながら解説しますので、ぜひ気軽に読んでみてくださいね!
五・一五事件が起こるまでの時代背景
五・一五事件とは、1930年代初頭の日本の政治的混乱や、国内外の経済問題、軍部の台頭など、さまざまな要因が重なって生まれた事件です。
特に以下のような時代背景が重要なポイントとして挙げられます。
経済不況と社会不安の拡大
1929年の世界恐慌の影響は日本にもおよび、農村部を中心に深刻な経済不況が訪れました。
農家は米価の暴落で生活が苦しくなり、都市部でも失業や賃金の低下が問題化。
国民の不満が高まり、政治への不信感も一気に強まっていきます。
満州事変と軍部の勢力拡大
1931年の満州事変以降、関東軍をはじめとする陸軍の勢いは高まっていきました。
軍部は国際連盟からの非難にもかかわらず、強硬路線をとり続けます。
こうした軍国主義的な風潮が国内にも影響し、「昭和維新」を目指す急進的な考え方が一部の青年将校に支持されるようになりました。
「昭和維新」を掲げる団体の登場
五・一五事件に先立ち、血盟団事件(けつめいだんじけん)と呼ばれる暗殺テロが1932年初頭に起こりました。
血盟団は、「昭和維新」を掲げて政財界の要人暗殺を計画したグループです。
彼らの狙いは、既存の政治体制を打破し、新しい国家体制を作ることでした。
この血盟団の思想は、一部の海軍青年将校にも影響を与えたといわれています。
政党政治への不信と混迷
昭和初期の日本は、立憲政友会や立憲民政党などの政党政治が展開されていたものの、汚職や派閥争い、財界との癒着などがたびたび取り沙汰されました。
さらに、軍部との対立や外交問題も絡み合い、国民の間では「政治家は国を動かす力がない」といった不満が渦巻いていました。
そうした空気の中、「政党政治を打倒し、日本を新たに作り直すべきだ!」という過激な声が勢いを増していったのです。
五・一五事件当日までの動き
1932年5月15日、東京で起こった五・一五事件には、海軍の青年将校たちが中心となりました。
当初、彼らは次のような行動を計画していました。
- 犬養毅首相の襲撃
- 政界要人や財界人の暗殺
- 政治権力の掌握(クーデター未遂)
しかし大規模なクーデターを敢行するには、陸軍をはじめとする他の軍部グループとの連携が必要でした。
実際には海軍将校たちが主導したこともあり、計画にずれが生じて十分な規模を確保できませんでした。
そのため、最終的には「首相官邸の襲撃」をメインとした行動に終わったのです。
首相官邸への侵入と犬養毅の死
事件当日、海軍将校たちは首相官邸へ乗り込みました。
迎え撃った護衛たちを制圧し、首相室へ突入。
面会した犬養毅首相に対して、彼らは自らの「国家改造」への思いを訴えます。
しかし、犬養首相が話し合いによる解決を提案したものの、感情的になった青年将校らは首相を銃撃。
その場で犬養毅は致命傷を負い、間もなく死亡しました。
犬養毅は、当時「話せばわかる」と語りかけたと伝えられています。
首相としてこれまで積み重ねてきた政党政治の経験から、最後まで対話を試みようとしたわけです。
しかし現実には、その言葉が青年将校たちを動かすことはありませんでした。
犬養毅とはどんな人物だったのか
五・一五事件とは、犬養毅の暗殺を中心とするクーデター未遂事件ですが、ここで改めて犬養毅という人物についても理解を深めましょう。
犬養毅(1855年~1932年)は、岡山県出身の政治家です。
ジャーナリストとして活躍しながら、立憲政友会の党首も務めました。
当時の内閣総理大臣として、世界恐慌の影響が深刻化するなか経済政策の立て直しや外交問題の処理に取り組んでいました。
特にロンドン海軍軍縮会議をめぐる問題や、満州事変への対応など、難題が山積みの時期に首相を務めていたのです。
また、犬養毅は政党政治を重視し、「議会を通じて国を動かす」という考えを強く持っていました。
五・一五事件当日も、最後まで話し合いによる問題解決を試みようとしていたと伝えられています。
残念ながら、その思いは青年将校たちには届かず、悲劇的な結末を迎えたわけです。
五・一五事件の影響とその後
五・一五事件は、日本の政治と社会に大きな転換点をもたらしました。具体的にどのような影響があったのでしょうか。
政党政治の終焉と軍部の台頭
犬養毅首相が殺害されたことで内閣は瓦解し、政党政治は大きく揺らぎました。
これをきっかけに、軍部がますます政治の実権を握るようになり、以後の日本は軍国主義へと傾倒していきます。
五・一五事件は、政党政治が終わる象徴的な出来事となりました。
青年将校たちへの世論の反応
五・一五事件後、犯人となった青年将校たちに対して世論から同情や支持の声が上がったという事実は見逃せません。
当時の一般の人々は、腐敗した政党政治への強い不満を抱いていました。
そのため、「彼らは国を思って行動した」「心情的には理解できる」といった声が多かったのです。
こうした世論の動きが、軍部や急進的な国家改造論にさらに拍車をかける結果につながりました。
軍国主義への加速
この事件を皮切りに、1936年の二・二六事件など、さらに大規模なクーデター未遂が続発します。
そして日本は、日中戦争へと突入(1937年)し、太平洋戦争(1941年~1945年)へと向かっていきます。
五・一五事件は、その入り口ともいえる転換点でした。
二・二六事件との比較
五・一五事件 とは、よく二・二六事件と並び称されます。
二・二六事件は1936年(昭和11年)2月26日に陸軍の青年将校たちが首相官邸や警視庁などを占拠し、多くの要人を殺害したクーデター未遂事件です。
両者はよく似た事件ですが、以下のような違いもあります。
- 主犯の所属
五・一五事件は海軍の青年将校が中心、二・二六事件は陸軍の青年将校が中心。 - 規模の違い
二・二六事件のほうが大規模であり、3日間にわたって官庁街を占拠するなど実質的に東京がマヒ状態に陥りました。一方、五・一五事件は犬養毅首相の暗殺に終わったため、規模としては比較的小さいものでした。 - 目的・背景の類似点
いずれも「昭和維新」「国家改造」を唱え、既存の政治体制を打破して軍主導の新体制を樹立しようとした点で共通しています。
両事件とも、日本の政党政治を揺るがす重大な事件として語り継がれていますが、結果として軍部の発言力が一層高まる事態を招きました。
二・二六事件についてわかりやすく解説した記事はこちら!
犯人たちの裁判とその後
五・一五事件の首謀者である海軍青年将校たちは、その後どのように裁かれたのでしょうか。
彼らは軍法会議や特別法廷にかけられ、一応は法的手続きを経て有罪判決を受けました。
しかし、先述のように世論には「若い将校たちの正義感に同情する」という感情が根強くあり、減刑嘆願書も多く寄せられたといわれます。
結果的に、量刑は比較的軽く済んだケースが多かったようです。
これは裁判所や政府が世論の動向を強く意識していたことや、当時の社会全体が軍国主義へ傾斜していたことが背景にあります。
五・一五事件から学ぶこと
五・一五事件は、日本が軍部主導の国家体制へと加速していく大きな分岐点でした。
民主主義や政党政治の欠点を突くかたちで軍事力が政治を動かしてしまい、その後の歴史を考えても暗い影を落としています。
しかし同時に、この事件から私たちが学べる教訓もあるといえるでしょう。
たとえば、「政治体制に対する不満が高まったときに、暴力やテロでそれを解決しようとする動きが生まれる」ことや、「不透明な政治が続くと、過激な思想が勢力を伸ばしやすくなる」ことなどです。
現代でも、社会が混乱しているときには過激な運動や陰謀論が支持されるケースが見受けられます。
そのため、透明性や信頼性のある政治やメディアの存在がどれだけ大切なのか、改めて考えさせられますね。
さいごに
この事件をきっかけに軍部の発言力はさらに増し、政党政治は大きく後退します。
そして、日本は軍国主義へ加速する道をたどることになりました。
私たちが五・一五事件から得られる教訓は、「不満や不安が蓄積した社会ほど暴力や過激思想に流れやすい」という点です。
現代に生きる私たちも、社会の動きに無関心でいると、一部の過激な主張が多くの支持を集める事態になるかもしれません。
「話し合いによる解決」を求め続けた犬養毅の言葉は、いまなお重みを持って私たちの心に訴えかけてきます。
五・一五事件という歴史の事例を学ぶことで、時代の流れや人々の感情がどのように政治に影響を及ぼすのか、そしてその結果が何をもたらすのかを肌で感じられるのではないでしょうか。
自分たちの未来をよりよいものにするためにも、過去の教訓をしっかりと受け止めたいですね!