世界の歴史

サウジアラビアの歴史を簡単に解説!初心者でもわかるポイントまとめ

サウジアラビアとは?はじめに

サウジアラビアは、中東に位置するアラビア半島の大部分を占める国です。

石油や天然ガスなどの豊富な地下資源で有名ですが、歴史を遡るとイスラム教が誕生した地としても非常に重要な国なんです!

現在は君主制を採用しており、国王が政治を取り仕切る体制になっています。

サウジアラビアの歴史は、イスラム教の始まりと深い結びつきがあります。

7世紀初頭にイスラム教の開祖である預言者ムハンマドがメッカで啓示を受け、そこからイスラム世界が大きく広がっていきました。

メッカやメディナなどの聖地を有するサウジアラビアは、現在でも多くのイスラム教徒にとって特別な場所なんです!

古代アラビアからオスマン帝国時代まで

古代アラビア半島の姿

現在のサウジアラビアとなる地域は、古代から遊牧民のベドウィンがラクダや山羊などと共に生活する広大な砂漠地帯でした。

時にはオアシスを中心に商人が交流を深め、香料や布、金などが取引されていたんです!

アラビア半島は地中海世界やインド、アフリカを結ぶ重要な交易ルートにもなっていたため、商業で栄えた都市もありました。

イスラム教の誕生と拡大

7世紀になると、メッカ出身の預言者ムハンマドによってイスラム教がもたらされます

メッカやメディナはイスラム教の聖地となり、多くの人々がここを訪れるようになりました。

イスラム教徒同士の結束は非常に強く、瞬く間にアラビア半島の大部分を掌握するに至ります。

その後、正統カリフ時代やウマイヤ朝、アッバース朝といった時代を経て、アラビア半島はイスラム世界の中心地としての地位を確立していきました。

オスマン帝国の影響

14世紀頃から、強大なオスマン帝国が中東一帯を支配するようになります。

アラビア半島の一部地域もオスマン帝国の支配下に入りましたが、アラビア半島は広大で、各地に散らばる部族ごとに勢力があり、一枚岩ではありませんでした。

オスマン帝国に従いつつも、実際には部族の首長たちが地域ごとに独立性を保っていた、という状態が長らく続いたのです。

サウード家の台頭!近代サウジアラビアの始まり

ワッハーブ運動とサウード家の同盟

18世紀中頃、宗教改革の一環として登場したのが、イスラムの純粋な信仰復興を訴えるワッハーブ運動でした。

その創始者は、ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブという宗教指導者です。

彼はイスラム教の厳格な一面を強調し、偶像崇拝や伝統的な習俗を否定して真のイスラムに立ち返ろうと主張しました。

このワッハーブ運動が、アラビア半島内の有力な部族であるサウード家(サウド家とも表記)と結びつきます。

サウード家は当時ネジド地方(アラビア半島中央部)で勢力を拡大していました。

両者が手を組むことで、宗教と政治が一体となった強力な同盟が成立!

これによって一時期はアラビア半島の大部分を支配するまでに至ったのです。

第1次サウジ国家とその崩壊

このサウード家を中心とする国家は、歴史上「第1次サウジ国家(1744年~1818年)」と呼ばれます。

ワッハーブ主義の理念によって団結した軍勢は、メッカやメディナなどの聖地も支配下に収める勢いでした。

しかし、その急激な拡大がオスマン帝国の警戒を招きます。

オスマン帝国はエジプト総督のムハンマド・アリーに討伐を命じ、最終的に第1次サウジ国家は滅亡してしまいました。

第2次サウジ国家からの再建

その後、1824年に再興されたのが「第2次サウジ国家」です。

サウード家の一族が再びリヤドを拠点として勢力を盛り返し、ある程度の自治を保つことに成功しました。

しかし一族間の対立や他部族との争いなどもあって、安定した政権とは言い難い状況が続きます。

19世紀末には、ライバル関係にあったラシード家にリヤドを奪われるなど、サウード家は一時衰退の道を歩むことになります。

アブドゥルアジーズ・イブン・サウードによる現代王国の誕生

リヤド奪還と第3次サウジ国家の樹立

サウード家の再興を本格化させた人物こそ、アブドゥルアジーズ・イブン・サウード(以下、イブン・サウード)です。

1902年、彼は失った本拠地リヤドを再び奪還!

これが「第3次サウジ国家」の幕開けとなります。

イブン・サウードはワッハーブ主義に支えられつつ、部族間の同盟を強化しながら勢力を広げていきました。

1920年代から1930年代にかけて、ヒジャーズ地方(メッカとメディナが位置する沿岸地域)も含め、アラビア半島のほぼ全域を統一することに成功します。

そして1932年、正式に「サウジアラビア王国」として国号が定められました!

ここからが、現在まで続く近代サウジアラビアの始まりといえます。

石油発見と経済発展

1930年代後半にサウジアラビア国内で石油が発見されたことが、国の行方を大きく変える決定打になりました。

当時、アメリカ合衆国の石油企業が探索を進めていたのですが、その埋蔵量は想像をはるかに上回る規模!

この豊富な石油資源は、王国の経済基盤を飛躍的に強化し、急速な近代化を後押しする原動力となりました。

第二次世界大戦後、サウジアラビアは石油輸出による巨額の収益を背景に、学校や病院、インフラの整備など、国民の生活水準を高める施策を積極的に推進。

結果として中東地域における強力な経済大国として成長を遂げます。

さらに1960年代にはOPEC(石油輸出国機構)の設立にも関与し、世界のエネルギー市場において大きな影響力を行使するようになりました。

近代から現代にかけての主な出来事

1973年のオイルショック

1973年には中東戦争(第四次中東戦争)の影響で、サウジアラビアを含むOPEC諸国がアメリカなど一部の国々に対して石油禁輸措置をとりました。

これが世界的なオイルショックを引き起こし、原油価格は急上昇!

世界経済に大きな混乱をもたらしましたが、同時にサウジアラビアを中心とする産油国は莫大な利益を得て、さらに影響力を高めるきっかけとなりました。

イスラム教の聖地の管理

サウジアラビアには、メッカのカアバ神殿やメディナの預言者のモスクなど、イスラム教にとって最も重要な聖地が存在します。

サウジアラビアはこれら聖地の管理者として、世界中のイスラム教徒に対して特別な使命と責任を持ち続けているのです。

ハッジ(巡礼)には世界各国から毎年多くの人が訪れるため、サウジアラビア政府は安全確保や受け入れ体制の充実に力を注いでいます。

現代の改革とビジョン2030

近年のサウジアラビアは、石油に依存する経済構造からの脱却を目指すため、「ビジョン2030」という壮大な改革計画を打ち出しました。

公共投資や観光事業の拡大、女性の社会進出の促進など、多岐にわたる分野でのイノベーションが行われています。

王室による支配体制は続いていますが、社会面での変化も活発に進んでいるところが現代サウジアラビアの特徴です!

サウジアラビア歴史のまとめ

  1. 古代から続く交易の拠点
    アラビア半島は、古来より交易と交流の中心地でした。ラクダを使うキャラバン隊による貿易や文化交流が盛んでした。
  2. イスラム教の誕生と広がり
    7世紀に預言者ムハンマドがメッカで啓示を受け、イスラム教が誕生!メディナとともに聖地としての地位が確立され、アラビア半島全域にイスラム教が普及しました。
  3. オスマン帝国の影響と部族勢力
    アラビア半島はオスマン帝国の支配下に入りつつも、広大な砂漠と部族社会の特性から、実質的には各地方が半ば独立的な状態に。
  4. サウード家とワッハーブ運動の台頭
    18世紀にワッハーブ主義を掲げた宗教改革とサウード家が手を組み、第1次サウジ国家を建設!オスマン帝国との抗争などを経て、幾度かの衰退と再興を繰り返しました。
  5. 第3次サウジ国家と現代王国の成立
    イブン・サウードがリヤドを奪還し、アラビア半島の統一に成功。1932年に「サウジアラビア王国」が正式に誕生し、現在の基盤が整えられました。
  6. 石油の発見と急速な近代化
    1930年代後半に石油が発見され、国の財政は大きく潤いました。インフラ整備や教育・医療の充実など、近代国家としての飛躍が始まりました。
  7. 国際社会への影響力と改革
    石油輸出による莫大な収入やOPECでの発言力、聖地の管理などを通じて国際社会での地位を確立。近年は「ビジョン2030」を掲げ、経済多角化や社会改革に注力しています。

いまのサウジアラビアを知るために

サウジアラビアの現状を理解するには、その歴史とイスラム教の結びつきを知ることが大切です。

メッカとメディナといった聖地の存在は、王国の宗教的正統性を支え、世界から注目される理由にもなっています。

また、石油が見つかって急速に近代化を遂げたため、ほんの数十年で砂漠の国が都市化された、という劇的な変貌を遂げた点も興味深いです!

一方で、社会制度や文化など、独特な側面も多く残っています。

特に女性の権利や宗教上の規制などは、ここ数年で大きく緩和されているとはいえ、

世界の基準から見るとまだまだ議論の余地があるとされることも。

大きな改革を目指す動きも進んでいるので、今後どのように変わっていくのかが注目されています。

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