はじめに
クロアチアといえば、美しいアドリア海の風景や、中世の街並みが残る観光地として有名ですよね!
近年は世界的にサッカーが強豪国としても注目を浴び、国名を耳にする機会も増えています。
しかし、その歴史についてはあまり知られていないかもしれません。
実はクロアチアは、古代からさまざまな国や民族の影響を受けてきた、奥深い歴史を持つ国なんです!
ここでは、そんなクロアチアの歴史をざっくり&簡単にご紹介します。
古代のクロアチア地域
クロアチアの地は古くから人が住んでいた地域で、先史時代にはイリュリア人と呼ばれる古代民族が暮らしていました。
その後、紀元前2世紀ごろからローマ帝国の支配下に入ります。
当時のローマ帝国は地中海世界を広く支配しており、アドリア海東岸に位置するこの地域にも次々と都市を建設していきました!
ローマ帝国の統治と都市の発展
ローマ時代になると、現在のスプリトやドゥブロヴニク周辺には重要な港や街が作られました
特にスプリトは、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが晩年を過ごすために造った宮殿が有名で、街ごと世界遺産に登録されています!
ローマの影響により建築や道路網が整備され、地中海貿易の拠点として栄えたんですね。
中世:クロアチア人の到来と最初の王国
ローマ帝国の衰退後、ヨーロッパ各地ではゲルマン人やスラヴ系民族が大移動を始めます。
7世紀ごろになると、スラヴ系民族である「クロアチア人」がこの地域に定住し始めました。
クロアチア人は徐々に自分たちの文化や言語を築きながら、キリスト教(主にカトリック)の影響も受け入れます。
こうして形成されたのが、クロアチア人独自のアイデンティティの始まりです!
初期のクロアチア王国
9~10世紀ごろには、クロアチア人たちは部族連合から王国へと発展を遂げます。
伝説的な指導者や王の名前としては、トミスラヴ王(Tomislav)が知られています。
トミスラヴは10世紀初頭にクロアチア王国を統一し、初代の「クロアチア王」として歴史に名を残しました。
さらに、11世紀にはカトリック教会とのつながりが強まり、王国としての地位が安定していきます。
しかしながら、ヨーロッパの中世は戦乱の時代!
クロアチアは内陸部や隣接する周辺勢力との衝突も多く、なかなか平穏とはいきませんでした。
そんな中でも海岸地域では貿易での富を得る都市もあり、全体としてはゆるやかに成長していきます。
ハンガリーとの連合とオスマン帝国の脅威
12世紀末、クロアチア王国は隣国であったハンガリー王国との同君連合(同じ王が両国を統治する形)へと移行します。
これにより王国は安定を図ったものの、政治の中心はハンガリーに移り、クロアチア独自の権力はやや弱体化しました。
とはいえ、海沿いのダルマチア地方などは依然として商業や文化で活気を保っていました!
オスマン帝国の進出
15世紀以降、バルカン半島に急速に勢力を広げたのがオスマン帝国です。
オスマン帝国は強大な軍事力を背景に、セルビアやボスニアといった内陸地域を支配下に置き、クロアチアにも度重なる侵攻を行いました。
この脅威に対抗するため、クロアチアは神聖ローマ帝国やハンガリー、オーストリアなどさまざまな勢力との同盟や協力を模索。
しかし、それでもオスマンの圧力は大きく、一部地域はオスマン帝国の支配に置かれることもありました。
ハプスブルク帝国時代とナポレオンの影響
16世紀後半には、ハンガリー王家の断絶に伴い、ハンガリー=クロアチア王国は強力なオーストリア(ハプスブルク家)の支配下に入ります。
これにより、クロアチアは「ハプスブルク帝国」の一部として扱われるようになり、さらなる中央集権化が進んでいきました。
オーストリア=ハンガリー帝国下でのクロアチア
19世紀後半には、ハプスブルク帝国が「オーストリア=ハンガリー帝国」となり、二重帝国体制が始まります。
クロアチアはハンガリー領として位置づけられましたが、自治を要求する動きも活発化!
クロアチア民族主義が芽生え、文学や芸術の分野でクロアチア語が見直されるなど、文化面では独自の復興が進んでいきました。
ナポレオンの一時支配
また、19世紀初頭には、あのフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ征服を進める過程で、短期間ながらクロアチア沿岸部(イリュリア州)を直接支配したこともあります。
ナポレオン時代にはフランス流の法整備が導入され、ヨーロッパ全体に大きな変化をもたらしました。
クロアチアでもこの影響によって近代化が促進され、のちの自治運動や民族運動につながっていきます。
20世紀:二度の世界大戦とユーゴスラビア
20世紀に入ると、クロアチアを含むヨーロッパ全体が激動の時代を迎えます。
二度にわたる世界大戦と、それに伴う国境の変動がクロアチアの運命を大きく左右しました!
第一次世界大戦とオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊
第一次世界大戦(1914-1918)の末期、オーストリア=ハンガリー帝国は解体されます。
その結果、クロアチアはスロベニアやセルビア、モンテネグロなど他の南スラヴ系地域とともに、新たな国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちのユーゴスラビア王国)」へと統合されることになりました。
この時点でクロアチアは独立国家ではなく、ユーゴスラビア王国の一部として運営されることになります。
第二次世界大戦とユーゴスラビアの混乱
第二次世界大戦時、ユーゴスラビアはドイツやイタリアなど枢軸国の侵攻を受けて分裂状態に陥りました。
クロアチア地域にも「独立クロアチア国」という親ナチス的な政権が樹立されますが、それは実質的にはドイツ・イタリアの傀儡政権でした。
その一方で、パルチザンとして知られる抗戦組織(後のチトー政権)が各地でレジスタンス活動を行い、多くの戦いと混乱が繰り返されます。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ
戦後、パルチザンを率いたチトー(ヨシップ・ブロズ・チトー)が共産主義政権を確立し、「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」が成立。
クロアチアはその構成共和国のひとつとして組み込まれました。
表向きは連邦制でしたが、実質的にはチトーによる一党独裁体制です。
とはいえ、他の東欧共産圏と比べると経済的・文化的に自由度が高く、西側諸国とも比較的良好な関係を築いていたのが特徴でした!
クロアチア独立とその後
チトーの死後、ユーゴスラビア内部では民族問題や経済格差が顕在化。
1990年代初頭になると、クロアチアを含む各共和国が独立を宣言し始めます。
これに強く反発したのがユーゴスラビア連邦軍の中心的存在だったセルビアで、紛争が次々に勃発!
これらの一連の動きが「ユーゴスラビア紛争」と呼ばれるものです。
クロアチア独立戦争
クロアチアは1991年に正式に独立を宣言しましたが、その直後からセルビア人勢力との戦闘が激化。
いわゆる「クロアチア独立戦争」は1995年ごろまで続き、多くの犠牲者を出す悲しい出来事となりました。
しかし、国際社会や国連の調停もあって、最終的にはクロアチアが独立を勝ち取り、国際的にも国家として承認されるようになったのです。
EU加盟と現代のクロアチア
戦後の復興を進めたクロアチアは、2000年代に入ってからは観光立国としての魅力を高め、経済成長にも取り組みました。
2013年には、念願のEU(欧州連合)加盟を果たし、さらなる国際化へと進んでいきます。
近年はサッカーのワールドカップで活躍したこともあり、観光客だけでなくスポーツファンの注目も集めています!
クロアチアの歴史から見える魅力
クロアチアの歴史は、まさに激動のヨーロッパ史の縮図でもあります!
古代ローマの影響を受け、中世には独自の王国を築き、ハプスブルク帝国やオスマン帝国、ナポレオン、そして二度の世界大戦やユーゴスラビアを経て、ようやく独立を果たしました。
これだけ多様な文化や歴史が交錯してきたからこそ、クロアチアにはロマンあふれる建築物や遺跡、おいしい郷土料理などがたくさん存在します。
たとえばドゥブロヴニクの旧市街を歩けば、中世から近世にかけての商業都市の繁栄ぶりを肌で感じることができますし、スプリトのディオクレティアヌス宮殿に足を踏み入れれば、古代ローマの息遣いを体感できるはずです!
また、大都市ザグレブでは、19世紀から20世紀にかけてのオーストリア=ハンガリー帝国風の街並みが残りつつ、現代的なカフェやショップも楽しめるという絶妙なミックスが魅力的です。
もしクロアチアを訪れる機会があれば、ぜひ歴史的な背景を思い出しながら街を歩いてみてください。
きっと、その風景がまったく違って見えるはずです!