世界の歴史

クウェートの歴史を初学者向けに解説!知られざる中東の小国が歩んだ道

はじめに

クウェートは、アラビア半島の北東部に位置する小さな国です。

面積は日本の秋田県ほどで、人口も比較的少ない国ですが、豊富な石油資源と戦略的な立地を背景に、世界的にも注目されています

中東の国々は複雑な歴史を持つことが多いのですが、クウェートも例外ではありません!

歴史の中で、時に強国の支配を受け、時に自らの独立性を守り抜き、そして近代になると経済的に目覚ましい発展を遂げました。

そんなクウェートの歴史を、時代ごとに追って見ていきましょう。

地理的・歴史的背景

まず、クウェートが位置するアラビア半島北東部の沿岸地域は、古くから貿易や航海の拠点として栄えてきました。

ペルシア湾に面し、海上交通の要所でもあるため、外国との交流が盛んに行われていたのです。

クウェートは砂漠地帯が広がる厳しい環境でありながら、海のすぐそばにあることから真珠採取や漁業が盛んだった時代もあります。

また、内陸アラビアとの交易をつなぐ港町としても重要でした。

ラクダや馬を使った隊商貿易が盛んで、商人たちはクウェートを経由して各地へ物資を運びました。

こうした活動は、クウェートの地理的特性が培ったものといえます。

小さな国ながら、昔から国際的なコミュニケーションのハブとなっていたのですね!

オスマン帝国とのかかわり

18世紀に入ると、クウェートの歴史は急速に動き始めます。

1756年頃からサバーハ家による首長制が始まり、クウェートは小さな首長国として成長していきました。

クウェートの統治者たちは、周辺地域の大国との関係をうまく利用して国を守る術を模索していたのです。

この時代、中東地域はオスマン帝国の影響が強く、クウェートもオスマン帝国の宗主権の下に置かれていました。

ただし、オスマン帝国からは半ば独立した自治的地位を与えられていたともいわれます。

クウェートの統治者たちは、オスマン帝国に過度に干渉されるのを嫌いながらも、同帝国の後ろ盾を利用することで周囲のアラブ部族や他国からの侵攻を防いでいたのです。

クウェートの人々は厳しい砂漠の気候の中、海に活路を求めていました。

当時の主要産業は真珠貝の採取や貿易。ペルシア湾から産出される真珠は世界でも評判が高く、クウェートに莫大な富をもたらしました。

まだ石油が見つかる前の時代ですが、こうした貿易の繁栄が、クウェートの自治を支える経済基盤になっていたわけですね!

イギリスの影響と保護条約

19世紀後半になると、ヨーロッパ列強が中東地域への影響力を強めていきます。

特にイギリスはインドへの航路を確保するため、この地域を非常に重視していました。

イギリスはペルシア湾岸各国との条約を通じて保護関係を結び、オスマン帝国の衰退に乗じて勢力を拡大していきます。

クウェートにとっても、イギリスと手を結ぶことはひとつの選択肢でした。

周辺国の脅威から身を守るためには、当時最強の海軍力を誇るイギリスのサポートが必要だったのです。

1899年、クウェートはイギリスとの保護条約を結び、事実上のイギリス保護領となります。

この保護条約によって、クウェートは外交および軍事面でイギリスに依存する形となりました。

ただし、イギリスの保護下に入ったことで、オスマン帝国からの圧力を排除できたことはメリットでもありました

その一方で、イギリスの意向に大きく左右される外交や政策を強いられた面もあります。

時代の大きな流れの中で、小国が生き延びるためには、いずれかの大国と手を組まざるを得なかったのが現実でした。

石油発見と急速な近代化

20世紀初頭、クウェートの運命を大きく変える出来事が起こります。

それが「石油の発見」です!

1930年代後半から本格的に調査が始まり、クウェート領内で豊富な石油資源が見つかると、国際社会の注目が一気にクウェートに集まりました。

1940年代に入ると、石油の輸出が盛んに行われるようになり、一気に石油経済国として成長していきます。

第二次世界大戦後、世界の経済や技術の発展に伴い、石油は「黒い黄金」とも呼ばれるほど重要なエネルギー資源になりました。

クウェートの石油収入は国庫を潤し、教育・医療・インフラ開発などさまざまな分野へ投資が可能に。

国民に対しては医療や教育の無償化、住宅支援など手厚い社会福祉制度が整えられ、国民生活も劇的に向上しました。

ただ、膨大な富を得る一方で、経済が石油に依存しすぎるリスクも抱えることになります。

後々、このリスク管理がクウェートにとって大きなテーマとなり、現在までの経済政策にも影響を与えています。

独立とその後

クウェートは1961年、イギリスとの保護関係を解消し、正式に独立を宣言しました!

独立後、首長であるサバーハ家のもとで議会制度が導入され、比較的自由な政治体制が整えられていきます。

中東の王制国家の中でも、議会が一定の権限を持つ体制を早期に取り入れた国として注目されました。

しかし、独立したばかりのクウェートは、周辺諸国との緊張関係を抱えていました。

イラクはクウェートがかつて自国領だったと主張し、一方でサウジアラビアとも国境問題を抱えていたのです。

こうした領土紛争は、後の紛争や戦争の火種となっていきます。

それでも、国際社会がクウェートの独立を支持してくれた背景には、石油を安定的に供給してほしいという各国の思惑がありました。

クウェートもそうした国際世論を巧みに活用し、自国の安全保障を強固にしていったのです。

湾岸戦争とその影響

クウェートの歴史を語る上で、1990年のイラクによる侵攻、そして翌年に起こった湾岸戦争は避けて通れません!

イラクのサッダーム・フセイン政権は、石油生産量や原油価格をめぐってクウェートと対立していました。

さらにイラクは、財政難に苦しんでいた状況で、クウェートの豊富な石油資源を狙っていたともいわれています。

1990年8月、イラクは電撃的にクウェートに侵攻し、その領土を事実上併合してしまいました。

これに対し、国際社会は激しく反発し、多国籍軍が編成されてイラク軍を排除するための軍事行動が開始されます。

これが一般に「湾岸戦争」と呼ばれるものです。

湾岸戦争は1991年に多国籍軍の勝利で終結し、クウェートは主権を取り戻しました。

しかし、戦争によって国内のインフラは大きく破壊され、多くの油田が放火されるなど、環境面でも甚大な被害が生じました。

戦後のクウェートは、国際社会の支援を受けながら復興に尽力し、改めて国の安全保障と経済の再建に力を注ぐこととなります。

現代のクウェート

湾岸戦争からの復興を経験したクウェートは、その後も政治・経済改革を進めながら、社会の安定化を図ってきました。

議会を通じた政策決定プロセスも維持されており、中東地域の中では比較的民主的な要素を持つ国家として知られています。

ただし、一方で王族が政治や経済の重要なポジションを握り続けていることも事実で、改革のスピードには限界があるとの見方もあります。

経済面では、引き続き石油が国家収入の大部分を占めていますが、石油価格の変動によるリスクを軽減するために「脱石油依存」を掲げ、金融・物流・観光など多角化を図っています。

クウェート投資庁など、政府系ファンドを活用して海外への投資も積極的に行われ、安定的な資産運用に取り組んでいるのが特徴です!

また、教育や文化活動にも注力しており、大学や研究機関への投資が進められています。

女性の社会進出も少しずつではありますが拡大しており、議会選挙への立候補や官職への登用など、先進的な取り組みを行っている面も見逃せません!

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