日本の歴史

南北朝の動乱をわかりやすく解説!天皇が二つに分かれた壮大なドラマ

南北朝の時代って、どんな時代だったの?

南北朝の動乱と呼ばれる時期は、14世紀半ば頃(1330年代~1392年)にかけて続いた、日本史の中でも大きな内乱期です!

日本には、もともと朝廷という天皇を中心とした政治組織がありました。

しかし、その政治の中心が武家(武士)へと移っていった時代に、天皇をめぐる争いが深刻化していきます。

南北朝の動乱とは、文字どおり「南」と「北」、2つの朝廷が同時に存在してしまったことで起こる対立を指します。

現代の私たちからすると、「なんで天皇が2人もいるの?」とビックリしますよね!

でも、当時は政治の実権をめぐるあれこれが複雑に絡み合い、「南朝」と「北朝」という2つの朝廷が並立してしまったんです。

そもそもどうして朝廷が2つに分かれたの?

背景:鎌倉幕府の崩壊と後醍醐天皇の登場

まず押さえておきたいのは、当時の大まかな流れです。

鎌倉時代の終わり頃、元寇(蒙古襲来)などを経て、鎌倉幕府は経済的にも政治的にも疲弊していました。そ

こへ登場したのが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です!

後醍醐天皇は「天皇中心の政治をもう一度取り戻そう!」という強い意志をもっていました。

しかし、当時の日本の政治は、武士の棟梁である鎌倉幕府によって握られています。

そのため、後醍醐天皇は幕府を倒すために、密かに倒幕計画を進めました。

結果、鎌倉幕府は1333年に滅亡し(有名な新田義貞の鎌倉攻めなどが理由として挙げられますね)、後醍醐天皇は念願の天皇親政をスタートさせました。

これが世にいう「建武の新政(けんむのしんせい)」です。

建武の新政の苦戦と武士の不満

幕府が滅亡したあと、後醍醐天皇は天皇を中心とした新しい政治体制を作り上げようとします!

しかし、長く武士の支配が続いた日本で、突然「公家(朝廷)主導の政治」に戻すのは簡単ではありませんでした。

  • 武士たちは、多大な軍功の恩賞を求めていたのに、朝廷中心の政治では十分な恩賞が与えられなかった
  • 朝廷内部でも権力争いが激化し、スムーズな政治運営がままならなかった
  • 地方の武士の意見があまり反映されず、不満がくすぶった

このように、新体制への期待は大きかったものの、武士層の不満が高まり、「やっぱり朝廷の都合だけじゃやってられない!」という空気が急速に強まっていきます。

建武の新政に関する詳細記事はこちら!

足利尊氏の離反と新たな戦いの火種

そして、この動きの中心でカギを握ったのが、のちに室町幕府を開くことになる足利尊氏(あしかがたかうじ)でした。

足利尊氏は、はじめは後醍醐天皇側について鎌倉幕府を倒すのに協力していたんです。

ところが、建武の新政に対する武士の不満がピークに達すると、尊氏は「もう朝廷にはついていけない!」とばかりに後醍醐天皇から離反

やがて京都を制圧し、光明天皇を即位させてしまいます。

後醍醐天皇は尊氏に京都を追われた形となり、最終的に奈良県の吉野へ逃れました。

ここで後醍醐天皇を中心に成立したのが「南朝」です。一方、尊氏が京都で擁立した光明天皇が率いるのが「北朝」というわけです。

南朝と北朝、2つの朝廷が同時に存在!

こうして、後醍醐天皇を中心に吉野を拠点とする南朝、足利尊氏が擁立した光明天皇(そしてその後の系統)が京都を拠点とする北朝、という2つの朝廷が同時に存在する事態が生まれました!

この時期を総称して「南北朝時代」といいます。

南北朝の動乱を語るうえで重要なのは、それぞれの朝廷だけでなく、各地の武士たちがどちらにつくかで、戦乱が日本各地に広がったことです。

全国的に「南に味方するか、北に味方するか」が常に流動的でした。

特定の大名や守護が急に裏切り、形勢が逆転するといったことも頻繁に起こります。

どうして南北朝の動乱は終結したの?

南北朝の動乱は約60年にも及ぶ長い内乱でしたが、足利義満の時代にようやく終結を迎えます。その理由は、大きく分けて次の3点です。

武力のバランス変化:南朝の有力武将が次々に力を失っていき、北朝・室町幕府が全国的な軍事力を固めた。

外交的手腕:足利義満は南朝の皇族・公家との融和を進め、血筋を絶やさず取り込む政策をとることで、双方の対立を和らげた。

国内安定への欲求:武士・農民・公家など幅広い層が「いい加減、戦乱は終わりにしたい!」と考え始めた。社会全体が平和と安定を求めた結果、南北朝を一本化する機運が高まった。

こうした動きのなかで、1392年に明徳の和約が結ばれ、南北朝はひとまず合体しました。

後醍醐天皇の夢見た天皇中心の政治は完全には実現しませんでしたが、室町幕府を頂点とする武家政権のもとで、日本は新たなステージへと進んでいくわけです。

南北朝の動乱がもたらした社会への影響

武士の地位向上と室町幕府の確立

南北朝の動乱を経て、武士たちの地位はさらに強固になりました!

そもそも鎌倉時代の段階で武士の力はかなり強くなっていましたが、南北朝の混乱によって全国の武士団が再編成され、最終的には室町幕府の支配体制へと収束していきます。

朝廷は公家としての文化を守る役目を担い、現実的な政治の中心は室町幕府が担う形になりました。

朝廷の権威の変容

南北朝の動乱では、天皇が2人(実際には皇統が2系統)存在したわけですが、最終的には足利義満の調停により、形式的に南朝が北朝に合流することで収束しました。

ただし、「どちらが正統なのか?」という問題は後世まで議論が残り、皇位継承の複雑さにつながる要素も含んでいます。

経済・文化の発展への道

混乱のなかで、各地の武士たちは所領の確保や拡大に乗り出しました。

これは、一方で農業技術の発展や商業活動の活性化にもつながっていきます。

とくに室町時代には、堺や博多などの都市が海外貿易の拠点として栄え、経済的にも活況を呈しました。

また、室町文化(北山文化や東山文化)と呼ばれる独自の文化が花開いたのも、この南北朝の動乱が一段落した時期以降です。

武士が中心となった文化だけでなく、公家文化や寺社勢力の文化など、多彩な要素が融合して新たな芸術や芸能が生み出されました。

南北朝の動乱の主な流れ

ここでは、南北朝の動乱の大まかな年表的流れをもう少し整理してみましょう!

より「わかりやすく」理解するために、時系列を追っていきます。

1333年:鎌倉幕府の滅亡

新田義貞らの活躍によって鎌倉幕府が崩壊。

後醍醐天皇が京都に戻り、天皇を中心とする政治を目指す。

1334~1336年:建武の新政

後醍醐天皇が公家中心の政治を断行するも、武士層の不満が爆発!

1335~1336年:足利尊氏の離反と京都制圧

足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、1336年には尊氏が光明天皇を擁立して事実上の新体制を作る。

1336年:後醍醐天皇、吉野へ逃亡

吉野(奈良)に拠点を移して南朝を樹立。一方、尊氏が京都に置いた朝廷は北朝として対峙。

1338年:足利尊氏、征夷大将軍に

室町幕府が始まる。尊氏は武家政権としての基盤づくりに邁進。

各地での激戦と混乱(14世紀後半まで)

南朝方は楠木正成(くすのきまさしげ)の一族や新田義貞の子孫などが各地で抵抗を続ける。

北朝方・室町幕府側は足利尊氏やその後継者(直義・義満など)が全国の武士をまとめるよう努めるが、すんなりとはいかない。

1392年:南北朝合一(明徳の和約)

第三代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)の調停のもと、ついに南朝側が京都へ戻る形で朝廷が一本化され、南北朝の動乱は終結に向かう。

主要人物をざっくり紹介!

南北朝の動乱を語るうえで、重要な人物をもう少しだけ深掘りしてみましょう。

後醍醐天皇

  • 生涯の目的:鎌倉幕府を倒し、天皇を中心とした政治を復活させること!
  • 特徴:革新的な考えの持ち主で、数々の討幕計画を実行。建武の新政を推進したが、武士層の支持を十分に得られず、尊氏と対立して吉野へ。
  • 意志の強さ:不遇な状況下でも、なお「朝廷中心の政治」を目指し続けた。

足利尊氏

  • 生い立ち:鎌倉幕府を支えてきた有力御家人(武士)の家柄。最初は後醍醐天皇に協力して鎌倉幕府を倒した。
  • 転換点:建武の新政に不満を抱く武士をまとめる形で後醍醐天皇から離反。京都を制圧し、光明天皇を擁立して実質的に新政府を作り出す。
  • 征夷大将軍就任:1338年に正式に征夷大将軍になり、室町幕府の初代将軍となる。

楠木正成(くすのき まさしげ)

  • 南朝方の英雄:河内(大阪南部)を拠点にゲリラ戦を展開し、当時の武士には珍しく知略に長けた人物とされる!
  • 有名なエピソード:兵力で劣る南朝方を巧みな戦術で支え続けるが、1336年の湊川の戦いで壮絶な最期を遂げる。
  • 人気の理由:忠義の士として武士道の象徴とされ、戦国時代以降も武将たちのお手本とされた。

足利義満

  • 室町幕府第三代将軍:尊氏の孫にあたる。
  • 南北朝合一を実現:武力だけでなく外交や調停の才能を発揮し、1392年には南朝と和睦して朝廷を一本化。
  • 文化面への貢献:金閣寺(鹿苑寺)を建立したり、北山文化を華やかに育んだりと、室町文化の基盤を築いた。

ちょっと気になる南北朝の動乱「あるある」Q&A

Q1:南北朝ってどのくらい続いたの?
A1:約60年ほど続きました。1336年あたりに後醍醐天皇が吉野へ拠点を移した頃から、1392年に合一されるまでが南北朝時代とされます。

Q2:南朝と北朝、どっちが正統なの?
A2:歴史的には、「南朝が正統」とする説が江戸時代に確立しました。明治以降は、南朝を正統な天皇系統とみなすことが通説となっていますが、実際には複雑な論争があり、一概に「どちらが正統」と割り切れない部分もあります。

Q3:楠木正成は本当にすごい武将?
A3:はい! 当時としては珍しいゲリラ戦法や築城戦術を駆使し、少数兵力で大軍を相手取るなど、戦略面で非常に優れていたとされます。後世の武士や大名、さらには近代日本の軍人たちにも大きな影響を与えました。

Q4:南朝は最後まで負け続けだった?
A4:実は途中、南朝方が勝利を収めた戦いもあります。ただ、全体として北朝・室町幕府側が次第に優勢になっていきました。

Q5:南北朝の動乱後に公家はどうなったの?
A5:公家の文化や伝統はそのまま存続しつつ、政治の実権は武家政権が握る時代に。朝廷は朝儀(祭典や儀式)を担うなど、文化的・儀式的な側面での権威を保ちました。

南北朝の動乱はなぜ現代でも注目されるのか

南北朝の動乱というと、一見すると「古い時代の天皇争い」程度に思われがちですが、実は以下の点でも現在の日本に大きな影響を与えています。

武家政権の形がここで確立した

鎌倉幕府に続いて成立した室町幕府は、全国を支配する仕組みをさらに強化! 戦国時代や江戸幕府への橋渡し役となりました。

地方自治と経済発展のはじまり

地方豪族や守護大名が領地経営を進めるなかで、村や町が発展。貿易の拠点も整備され、日本経済が動き出すきっかけを作りました。

文化の多様化・融合

武家文化と公家文化が混じり合うことで、茶の湯や能楽など、日本独自の芸術分野が確立

のちの戦国大名や江戸時代の大名も、この室町期の文化を継承・発展させています。

天皇制の在り方への示唆

「天皇が2人いる」という驚くべき状況は、日本の歴史上でも異例です。

皇位継承の難しさや、政治権力との兼ね合いなど、現代でも考えるべき問題を示唆しています。

まとめ

南北朝の動乱は、歴史の教科書の一部としてさらっと触れる程度かもしれませんが、実はとってもドラマチックで、日本史を語るうえでは外せない重要なポイントなんです!

天皇の正統性や武家政権の誕生、そしてそこから生まれる文化など、多方面にわたって影響が及んでいます。

ぜひ、興味があればもう少し深堀りしてみてくださいね。

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