オーストリアの地理と背景
まずはオーストリアの地理的な位置を簡単におさらいしましょう。
オーストリアは中央ヨーロッパに位置し、東西南北をいくつかの国々に囲まれています。
主要な隣国としてはドイツ、イタリア、スイス、チェコ、スロバキアなどが挙げられます。
国土は山が多く、アルプス山脈の雄大な景色が広がっているのが特徴です。
ヨーロッパの中央に位置しているため、古くから他の国々との関わりがとても深く、様々な文化や政治の変遷を経験してきました。
では、そんなオーストリアの歴史を時代ごとに見ていきましょう!
古代~中世初期:ローマ帝国からの影響
オーストリア周辺の地域は、紀元前からケルト人が暮らしていました。
その後、紀元前1世紀頃にはローマ帝国の勢力がこの地域に及びます。
ローマ帝国は壮大な道路網を築き、要塞や都市を整備しました。
現在のウィーンの起源も、実はローマ帝国が築いた駐屯地「ヴィンドボナ(Vindobona)」にさかのぼるとされているのです!
やがてローマ帝国が衰退し、ゲルマン民族が各地に進出してくると、この地域でもさまざまな部族が入り乱れました。
8世紀頃になると、フランク王国が地域の覇権を握るようになります。
そしてフランク王国が分裂すると、その後継国家として神聖ローマ帝国(ドイツ王国)が台頭することに。
ここからオーストリアは、しばらく神聖ローマ帝国の一部として歴史を歩んでいくことになるのです。
中世盛期:バーベンベルク家の台頭
今のオーストリアの名前の由来は「Ostarrîchi(オスターリヒ)」という古いドイツ語の言葉で、「東の国」という意味を持つといわれています。
これは、神聖ローマ帝国にとっての東側の辺境地域だったからとも言われています。
この地域を最初に本格的に治めた王朝として知られるのが、バーベンベルク家です。
彼らは10世紀末から13世紀半ばにかけて、オーストリアの土台を築き上げました。
ウィーンを中心に領土を整え、貴族による支配構造を確立します。
バーベンベルク家の断絶後、オーストリアの支配権は次第にハプスブルク家へ移っていくのです。
ハプスブルク家の絶大な影響
オーストリアといえば、ハプスブルク家を抜きにしては語れません!
13世紀後半にハプスブルク家がオーストリアを手中に収めると、そこから数百年にわたる長い統治時代が幕を開けました。
ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の皇帝位をほぼ独占し、大きな影響力を持つ王朝としてヨーロッパ史に名を刻みます。
マリア・テレジアの改革
ハプスブルク家の中でも特に有名なのが、18世紀を代表する女帝・マリア・テレジアです。
彼女は女性でありながら神聖ローマ皇帝の権威を背負い、多くの改革を実施しました。
軍制や税制だけでなく、教育の整備にも力を入れ、子どもたちに義務教育を受けさせる制度を導入したのです。
これはヨーロッパでも先駆的な施策でした!
さらに、マリア・テレジアの息子であるヨーゼフ2世も改革政治を推し進め、宗教寛容令や農民解放といった当時としては革新的な政策を行いました。
こうした改革は、オーストリアが近代国家として進化していくための大きな一歩となります。
オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国
やがて19世紀に入ると、ナポレオン戦争の混乱の中で神聖ローマ帝国は解体されてしまいます。
その後、オーストリアは1804年に「オーストリア帝国」として再編されました。
ハプスブルク家は引き続きこの帝国を治めますが、ヨーロッパ全体は「民族意識」の高まりと産業革命の進展によって、大きく変動する時代に突入します。
二重帝国の成立
19世紀後半、特にハンガリー民族の独立運動が激化する中で、オーストリア政府は妥協案として「アウスグライヒ(Ausgleich)」と呼ばれる和協を結び、1867年に「オーストリア=ハンガリー二重帝国」を誕生させます。
この二重帝国は、オーストリア側とハンガリー側がそれぞれ自治権を持ちながら、国王(皇帝)は同一人物という複雑な構造でした。
しかし、帝国内は多くの民族が暮らしていたため、民族間の対立や独立を望む声は後を絶ちませんでした。
結局、この大国は20世紀初頭の大きな出来事によって、再び大きく変貌を遂げることになるのです。
第一次世界大戦と帝国の解体
第一次世界大戦は、1914年にオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇位継承者であったフランツ・フェルディナント大公がセルビア人青年に暗殺された「サラエボ事件」をきっかけに開戦しました。
こうして世界を巻き込む戦争が始まり、当時の強国だった二重帝国も戦乱の渦中へ突入していきます。
しかし、戦争が長期化するにつれ、帝国の内部では戦争への不満や民族的な対立が一気に高まりました。
そして1918年、第一次世界大戦で中央同盟国(ドイツ・オーストリアなど)が敗北すると、オーストリア=ハンガリー二重帝国はついに崩壊。
オーストリアは共和国として再出発することになりますが、この先も波乱は続きます。
戦間期~第二次世界大戦
戦間期の苦難
第一次世界大戦が終わった1918年以降、オーストリアはドイツとの合邦を求める声や、周辺国との領土問題などに悩まされます。
さらに、戦争による経済的打撃は甚大で、国内は深刻なインフレーションと失業に苦しみました。
小さな共和制国家として再スタートしたものの、政治的にも経済的にも不安定な状況が続きます。
ナチス・ドイツによる併合(アンシュルス)
そんな中、隣国のドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権が台頭。
ヒトラー自身もオーストリア生まれということもあり、オーストリアとの結びつきは否応なしにクローズアップされました。
1938年、ナチス・ドイツは軍事力を背景にオーストリアを併合(アンシュルス)し、国名を「大ドイツ国」に統合してしまったのです。
こうしてオーストリアは事実上、独立国としての地位を失ってしまいました。
第二次世界大戦後の復興
その後、第二次世界大戦でドイツが連合国に敗北すると、オーストリアは解放されます。
戦後は連合国(米・英・仏・ソ連)の管理下に置かれましたが、1955年に「オーストリア国家条約」を締結し、ようやく完全独立を回復します。
同時に「永久中立」を宣言し、冷戦下のヨーロッパにおいても中立国として歩んでいく道を選択しました。
現代オーストリアの歩み
経済発展とEU加盟
独立を回復したオーストリアは、経済復興を進めていきます。
音楽や観光といった文化的資源に加え、自動車部品や機械産業などの工業分野でも発展を遂げました。
1995年には欧州連合(EU)に加盟し、EU内部の自由貿易や人の移動のメリットを享受しながら、さらなる繁栄を実現しています。
多文化社会の形成
オーストリアは長きにわたって様々な民族や文化が混在する歴史を歩んできました。
そのため、多文化への対応や移民政策も大きなテーマとなっています。
近年は、難民受け入れをめぐる議論が活発化するなど、社会問題を抱える一方で、観光都市ウィーンを中心に世界中から人々が訪れ、さまざまな文化や言語がミックスされる魅力的な国へと発展を続けているのです!
オーストリア文化と歴史の結びつき
オーストリアの歴史を語る上で欠かせないのが、その豊かな文化!
特に音楽や美術の分野では、歴代の皇帝や貴族たちがパトロンとなり、数々の芸術家を支援してきました。
モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、世界的に有名な作曲家が活躍できたのも、ハプスブルク家の庇護や貴族社会の華やかさが背景にあったからです。
また、華麗な宮廷文化は建築にも反映され、ウィーンのシェーンブルン宮殿やホーフブルク宮殿など、現在でも観光名所として多くの人を魅了しています。
中世から近代に至るまでの歴史的建造物が数多く残されているため、オーストリアに行けば、ヨーロッパの歴史が色濃く刻み込まれている様子を実感できるでしょう!
まとめ
オーストリアの歴史は、ヨーロッパの中心で繰り広げられた数々の出来事と切り離せません。
神聖ローマ帝国の一部として発展し、ハプスブルク家の長き支配のもとで独自の帝国文化を築き上げたかと思えば、二重帝国時代には多民族を抱え込んで四苦八苦。
第一次世界大戦後には一度は共和制として再出発するも、ナチス・ドイツの圧力で併合されてしまい、第二次世界大戦終結後にようやく独立を取り戻す――まさに波乱万丈といえるでしょう。
しかし、その長い歴史と多様な文化がオーストリアの大きな魅力にもなっています。
古くから積み重ねられた文化的土壌は、素晴らしい音楽や芸術を世に送り出してきましたし、多民族の交わりは豊かな食文化にも表れています。
ウィーンのカフェ文化やザッハトルテ、シュニッツェルなどのグルメにも、歴史と国際色が息づいているのです!
最後まで読んでいただきありがとうございます。
これでオーストリアの歴史をわかりやすくまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか?
歴史は奥が深く、興味が湧くともっと詳しく知りたくなるもの! ぜひこの機会にさらなる情報をチェックしてみてくださいね。